硝子板に残る名字
早乙女璃々子は、三日月写真室のカウンターに小箱を置いた。中に入っているのは、祖母の家の箪笥から出てきた一枚の硝子乾板だった。
翌日、璃々子は婚姻届を出す予定だった。相手との暮らしに迷いはない。ただ、名字の話になるたび、「手続きが少ないほうでいいよね」と決まったことにされるのが、喉に小骨のように残っていた。反対するほどの理由を言葉にできず、届出用紙にはすでに相手の姓を練習してある。
店主は白い手袋をはめ、硝子板を窓の光へかざした。乳剤の剥がれた端を避け、黒い布の上へ置く。そこに浮かんだのは、二十代らしい女の横顔だった。祖母より一世代前の人だと聞いている。髪を短く切り、レンズの向こうではなく、画面の外を見ていた。
乾板の隅に、針で細く文字が刻まれていた。
〈T. SAOTOME〉
家の記録では、その人は結婚後の姓でしか残っていない。けれど撮影者が記した名は、嫁ぐ前のものだった。小さな署名は、硝子の欠けよりしぶとく残っていた。
店主は複写の注文票を出した。〈依頼主名〉の欄にペン先を置き、璃々子が名乗るまで書かなかった。
「早乙女、璃々子です」
店主は一字ずつ確かめるように記し、姓と名の間をわずかに空けた。仕上がり用の封筒にも同じ名を書き、乾板の箱には古い紐を結び直さず、新しい紙帯を巻いた。紙帯の表にも、早乙女璃々子、とある。
会計を終えると、店主はレコードを裏返した。針が落ち、歌のないピアノだけが静かに始まった。話を促すような言葉はなかった。
璃々子は店の隅の椅子に座り、鞄から婚姻届を出した。書き損じを恐れて二枚もらったうちの一枚だ。相手の姓で練習した文字を眺め、それを破る代わりに、写真を撮って相手へ送った。
〈明日、出す前に名字の話をしたい。面倒でも、私には面倒じゃない〉
送信後、乾板の箱を抱え直した。結婚をやめたいのではない。自分の名が、話し合われもしないまま消えるのをやめたかった。
硝子に刻まれた八文字は、百年近くたっても、光に透かせば読めた。