社用傘の外側

「社用傘は、社外で私物化しないでくださいね」

総務の榎本日和がそう注意すると、営業部の柴崎律は毎回、妙に素直な顔で傘を返した。

彼は外回りのたびに雨に降られ、透明な社用傘を借りに来る。そして返却のついでに、日和の机へ缶のミルクティーを置いていく。たったそれだけのやり取りが、いつからか社内で噂になった。

「柴崎さん、また榎本さんに会いに来たの?」

誰かが笑った日から、律は傘を無言で傘立てへ戻すようになった。日和も、返却票だけを確認した。噂が消えるほど、二人の会話も消えた。

台風が近づいた金曜の夜、電車は次々止まり、会社に残ったのは日和と律だけだった。傘立てには社用傘が一本。律の手には、黒い私物の傘が一本。

「榎本さん、駅まで」

「私はこれを使います。柴崎さんは自分のを」

「その傘、骨が曲がってます」

「備品管理の担当なので、状態確認も仕事です」

強がって社用傘を開くと、一本の骨が外れ、透明なビニールが情けなく垂れた。律は笑わなかった。ただ壊れた傘を閉じ、日和の手からそっと受け取った。

「これは会社に置いていきます」

「でも、一本しか」

「僕の傘は社用じゃないので」

自動扉の前で、彼は社員証を首から外した。日和にも視線で促す。二人でゲートを抜けた瞬間、律は黒い傘を開き、日和の肩を引き寄せた。

近い。雨音に紛れても、鼓動だけは聞こえそうだった。

「ここからは会社の外です」

「だから?」

「日和さん、と呼んでも、備品規程には触れません」

名字で守ってきた距離を、たった三文字が越えた。日和は傘の柄に添えられた彼の手へ、自分の指を重ねる。

律はスマートフォンを出し、翌日の予定画面を見せた。午前十一時、駅前の喫茶店。件名は「傘を返す」。参加者は二人の個人アドレスだった。

「明日は晴れ予報ですけど」

「返す理由がないと、会えないかと思って」

「理由なら、今できました」

日和は予定を承諾し、件名から「傘を返す」を消した。代わりに「二人で昼食」と入力する。

横断歩道が青になっても、律は肩を抱いたままだった。

社用傘は社外で私物化しない。だから二人は、会社のものではない関係だけを、雨の外へ持ち出した。