神籍離脱届はありません
市役所戸籍係の文挟壮志は、午前九時十二分、窓口で神様から求婚された。
「人間になります。婚姻届をください」
そう言ったのは、再開発で取り壊される長屋の炉守神ククルだった。
彼女は百年、竈の火と家族の食卓を守ってきた。壮志が空き家調査へ通ううち、二人は夕暮れの台所で話すようになった。ククルは味噌汁の湯気で髪を結い、壮志は誰も使わない食卓でコンビニ弁当を食べた。
「まず神籍離脱の証明書を」
壮志が言う。
「どこで取れます?」
「その制度はありません」
「では作って」
「市役所を万能の祠だと思わないでください」
ククルは頬を膨らませた。
再開発後、長屋の神々は中央神殿へ合祀される。合祀された神は大きな〈街守〉の一部となり、個々の名も記憶も失うという。
「壮志と暮らせば、私は消えません」
「一人だけに祀られた神は、その人の願いへ変わると聞きました」
「願われるのは、うれしいことです」
「私の望む姿にしかなれなくなる。そんなのは結婚ではない」
ククルは机を叩いたが、神なので音は鳴らなかった。
「では、あなたが神になればいい」
「採用試験は?」
「ありません」
「神界を万能の役所だと思わないでください」
二人は笑った。
笑ったあと、同時に黙った。
合祀の日は翌週だった。
壮志は市の書式を改造し、〈祭祀関係終了確認書〉を作った。
「これに署名すれば、私たちは他人ですか」
「公的には、最初から他人です」
「役所は冷たい」
「だから私的に、別れます」
壮志は言った。
自分だけが彼女を覚えていれば、ククルは街守の中から戻ろうとするかもしれない。戻れば不完全な神となり、町の火災除けが弱まる。彼女が守ってきた何千もの食卓を、恋のために危険へさらせなかった。
ククルは朱肉を使わず、指先から小さな火を出して印を押した。
紙に丸い焦げ跡が残った。
「最後に一つ、願ってください」
「願うと、あなたを縛る」
「最後だから」
壮志は迷い、言った。
「忘れても、幸せでいて」
「矛盾した願いですね」
「役所では受理できません」
「神様なら受理します」
合祀の日、長屋の炉から最後の火が消えた。
中央神殿の灯が一斉に明るくなり、町じゅうの台所で湯が沸いた。
壮志の部屋でも、触れていない鍋から湯気が立った。
その匂いは、ククルの髪によく似ていた。
彼女はもう彼を知らない。
それでも別れの書類だけは、戸籍係の机の鍵付き抽斗に残った。
法的効力はない。
だからこそ、二人が自分たちの意思で終わらせた恋の、唯一の公文書だった。