福神漬けを足す
絵梨は別れた翌週、駅裏のカレー店に一人で入った。四人掛けしか空いていなかったが、店員は何も言わず水を一つ置いた。向かいの椅子が広すぎて、鞄を置いても埋まらなかった。
彼と来ると、注文はいつも同じだった。中辛のポークカレー、ライス少なめ、福神漬けなし。最初のデートで絵梨が一度だけ赤い漬物を残したのを、彼はずっと覚えていた。「苦手だもんね」と、二度目からは自分の皿へ移した。親切な手つきだったから、絵梨も訂正しなかった。
メニューを開く必要はなかった。口が勝手に、いつもの、と言いかける。
「福神漬け、つけてください」
それだけ言うと、胸の奥が妙に騒いだ。別れた理由はもっと大きい。転勤について来てほしい彼と、今の仕事を離れたくない絵梨。互いに譲れず終わった。それなのに、絵梨が誰にも言えずにいた悩みは、仕事を選んだ自分が本当に自分の好みを知っているのか、ということだった。小さな選択すら任せ続けた人間に、大きな選択だけ正しくできるのだろうか。
皿が届く。スパイスの香りの横に、赤い福神漬けが小さく盛られていた。まずは触れずに半分食べた。彼がいたときと同じ食べ方だ。カレーとごはんを崩さず、端からきれいに減らしていく。
残り三口になって、絵梨は福神漬けを一本だけのせた。噛むと、思っていたより軽い歯触りがした。甘くて、少し酸っぱい。嫌いではない。好きだと言い切るほどでもない。
二口目には二本のせた。最後のひと口には、残っていた分を全部のせた。赤い山は少し多すぎて、味の均衡を壊した。それでも絵梨は水で流さず、ゆっくり噛んだ。
空になった小皿を見て、笑いそうになった。好みは、正解を当てるものではなく、試してから決めてもいいらしい。
彼が覚えていたのは、最初の一度だけだった。絵梨が今日知ったのは、その後の自分だった。どちらの記憶も間違いではない。
会計前、店員が福神漬けの器を下げようとした。絵梨は指先で止め、もう一本だけつまんで口に入れた。