私は薬指を降りた
私は、橘川泰雅が宮坂琴音へ贈った婚約指輪である。
内側には二人の頭文字と、六月十二日の日付が刻まれていた。
泰雅は震える手で私を差し出し、琴音は泣きながら左の薬指へ通した。
けれど彼女は知っていた。
泰雅が本当に愛しているのは、学生時代からの友人、千石和臣だということを。
泰雅の家は古い。
跡取りは結婚し、子を持ち、家名を続けるものだと決められていた。
和臣はその家へ入れない。
琴音は家族に好かれ、条件の整った婚約者だった。
泰雅は彼女にやさしかった。
記念日を忘れず、体調を気遣い、将来の家まで探した。
ただ、和臣から連絡が来たときだけ、やさしさより先に笑った。
婚礼衣装の試着日、琴音は私を外した。
「好きな人ができました」
彼女は両家の前で言った。
「婚約を解消してください」
嘘だった。
悪者になるための、簡潔な嘘だった。
泰雅は二人きりになると、低い声で訊いた。
「どうして僕をかばう」
「かばってない。私、あなたと結婚したら、毎日いい妻を演じる。あなたもいい夫を演じる。二人とも上手だから、死ぬまで誰も止めてくれないでしょう」
「家を捨てればいいのか」
「それを私のために捨てたことにしないで。和臣さんの手を取りたいなら、自分のために取りなさい」
私は小箱へ戻された。
琴音の指には、細い跡だけが残った。
数か月後、彼女は私を宝石店へ持ち込んだ。
「この石を使って、飾りのない指輪を二つ作れますか」
店主が驚く。
「お客様がお使いに?」
「いいえ。幸せになってほしい人たちへ」
私は溶かされ、二つの細い輪になった。
頭文字も日付も消えた。
代わりに内側へ、琴音が選んだ短い言葉が刻まれた。
〈演じなくていい〉
小包が届いた夜、泰雅から電話が来た。
「こんなことまでしなくていい」
琴音は明るく答えた。
「返品不可です」
「君は、幸せなのか」
「今は痛い。でも、あなたが私の隣で不幸になるより、ずっとまし」
数年後、私は和臣の薬指にいた。
もう一つの私は、泰雅の手にある。
式も家の許しもない、小さな暮らしだった。
それでも二人が食卓で笑うたび、私たちは同じ光を返した。
琴音の指へ戻ることはない。
けれど私は、彼女が捨てた婚約の残骸ではなかった。
愛する人を手放し、その人が本当に愛する相手のもとへ送り出した、彼女の笑顔が形を変えたものだった。