空になった試着室

服飾店の新人は、接客が苦手だった。

声をかければ客に避けられ、黙っていれば先輩に注意される。

閉店後、試着室に忘れられた透明な上着を見つけた。

羽織ると鏡から自分が消えた。

ただし試着室のカーテンを開けている間しか、見えなくならなかった。

新人は少しだけ店内を歩いた。

先輩たちはレジを締めながら、自分の話をしていた。

「今日も声、小さかったね」

やはり役に立っていない。

そう思った直後、別の先輩が言った。

「でも、あの人、客が触った服を全部元の向きに戻してた」

「裾のほつれも三つ見つけた」

「接客より検品向きかも」

褒められているのか、外されようとしているのか分からない。

店長が倉庫から出てきた。

「本人には言った?」

「まだ。落ち込むと思って」

「言わない方が落ち込むよ」

新人は聞き続けた。

先輩たちは、声を出せない自分を笑っていたのではない。

どこへ置けば働きやすいか、本人抜きで相談していた。

その優しさにも腹が立った。

守られているだけでは、いつまでも仕事を選べない。

翌日、店長に呼ばれる前に言った。

「接客は苦手です。でも、苦手なまま練習したいです。検品もやらせてください」

店長は驚き、

「誰かから聞いた?」

と尋ねた。

新人は透明な上着のことを言えず、

「聞こえないふりをされていると、たまに聞こえます」

と答えた。

それから午前は検品、午後は接客を担当した。

最初の客には声が裏返った。

二人目には断られた。

三人目の客が、同じ服を色違いで迷っていた。

新人は、

「どちらも似合います」

と言いかけ、やめた。

昨日、透明なまま聞いた店長の言葉を思い出した。

言わない優しさより、相手が選べる言葉を渡す。

「明るい方は顔がよく見えます。暗い方は鞄と合います。どちらを残したいですか」

客は考え、暗い方を選んだ。

閉店後、透明な上着は試着室から消えていた。

新人はカーテンを開けたまま、鏡の前に立った。

姿は普通に映る。

先輩が後ろから言った。

「今日、よかったよ」

以前なら社交辞令だと思った。

今度は振り返り、

「どこがですか」

と聞いた。

見えないところで守られるより、見える場所で具体的に教えてもらう方が、少し怖くて、ずっと温かかった。