窓に遅れる雨
電車が走り出してから、雨は窓を追いかけてきた。
雫の横を、細い水筋が後ろへ流れていく。駅へ着くと縦に落ち、発車するとまた斜めになる。斜め、縦、斜め。ワイパーのない大きな窓は、終電の速度だけで雨の形を変えていた。
雫は濡れた傘を足の間に立て、先端から落ちる水を靴の影へ集めた。向かいの座席は空いている。天井の蛍光灯がガラスへ二列に映り、その間に自分の顔が薄く浮かんでいた。
夕方、三年付き合った人から、部屋に残した本を送ると連絡があった。別れてから二か月。返事は「お願いします」の六文字で済んだ。済んだはずなのに、送信した画面を閉じるたび、何か大事な一文を省いたような気がした。
車輪が継ぎ目を越える。たたん、たたん。空調の吹き出し口が低く鳴る。雨粒が斜めになり、駅で縦へ戻る。その反復を見ているうち、窓の端に小さな半円が現れた。
前の駅から乗った学生らしい人が、曇ったガラスを指で拭いた跡だった。景色を見るために一度なぞり、そのまま別の車両へ移ったらしい。半円の中だけ雨粒の向こうが鮮明で、夜の住宅が切り取られている。
雫はそこへ顔を寄せなかった。知らない指の跡を自分の窓にするのは、少し違う気がした。ただ、誰かもこの雨の向こうを見ようとしたのだと思った。
次の駅で、ホームにいた駅員が黄色い線を確認しながら歩いた。濡れた帽子のつばから水が落ちる。車掌の笛が短く鳴り、ドアが閉じる。半円はまた曇りに侵され、輪郭を失っていった。
スマートフォンには、返事のいらない連絡が一通ある。雫は画面を開き、「本の中に写真が挟まっていたら捨ててください」と打った。少し考えて、全文を消した。写真が戻ってきても、捨てるか残すかはそのとき決めればいい。
終電は川を渡った。橋の上では雨音が遠のき、車輪の回転だけが床から伝わる。窓の半円はもう見えない。
雫は傘の先を少しずらし、靴の下の水たまりを避けた。何も言い足さない夜があってもいい。雨に遅れず帰ることだけを考えれば、今夜の部屋へは一人で入れそうだった。