紺色のマグカップ

 更紗は、二つあるマグカップの片方を捨てられずにいた。

 白いカップと、紺色のカップ。白いほうが更紗のもので、紺色のほうはもう戻ってこない人が使っていた。別れるとき、相手は服も本も充電器も持っていったのに、その一個だけを食器棚へ残した。

 午前零時半、更紗は白いカップに水を入れ、ベランダへ出た。

 エアコンの室外機が低く回っている。隣の建物の屋上では赤い航空灯が、点いて、消え、点いて、消える。雨は降っていないのに、手すりには夜露が薄く浮き、指を置くと冷たかった。

 部屋の中には、洗い終えた二つのカップが並んでいる。

 捨てれば片づく。残せば未練になる。そんなふうに決めること自体が面倒で、三週間、同じ位置に置いたままだった。

 室外機が止まる。

 その途端、隣室のベランダから小さな音がした。

 かちん。

 陶器の縁に、スプーンか何かが当たった音だった。続いて、ガラス戸がわずかに軋む。薄いカーテンの向こうに人影が一度だけ横切り、湯気のような白さが窓辺へ広がった。

 誰かが夜中に飲み物を作り、ベランダ近くで一口飲んだ。それだけらしい。

 更紗は耳を澄ましたが、会話はなく、テレビの音もない。しばらくして向こうの照明が消え、また航空灯の点滅だけが残った。

 点いて、消える。

 点いて、消える。

 更紗は自分のカップの水を飲んだ。常温で、味はしなかった。

 部屋へ戻り、紺色のカップを手に取る。ごみ袋には入れず、食器棚のいちばん上へ置いた。脚立がなければ届かない場所だ。白いカップだけを、いつもの棚へ戻す。

 片づいたわけではない。忘れたわけでもない。

 空いた棚の手前には、紺色の丸い跡が薄く残っていた。更紗は布巾で拭かず、扉を一度閉めて、また開けた。見えなくなることと、なくなることは違う。違うままでも、朝の支度には困らなかった。

 ただ、明日の朝に使う一個が、迷わず取れるようになった。

 更紗はキッチンの照明を消し、ベランダ側のカーテンも閉めた。暗い部屋で、もう一度だけ隣のコップが鳴った気がしたが、確かめには行かなかった。