給与明細より薄いミルフィーユ

高瀬川映奈は、給料が振り込まれた午後十一時四十分、編集部の裏口から外へ出た。

駅の売店には、ミルフィーユが一つだけ残っていた。値引きシールの下で、薄いパイが何層も重なっている。映奈はそれを買い、終電の座席で膝に抱えた。

憧れて入った雑誌の仕事だった。好きな作家に会えた。自分の提案した特集が表紙にもなった。だから、残業代がつかないことくらい口にしてはいけない気がしていた。今月の勤務記録は二百四十六時間、給与明細の時間外欄は空白だった。午前二時の修正依頼にも返事をし、翌朝は定時に出た。好きな仕事なら疲れないふりまで、仕事のうちになっていた。同期は先月退職し、映奈だけが夢を守る番のように残っていた。

帰宅しても電気を全部つける気になれず、流しの上の灯りだけで箱を開けた。バターの香りが狭い台所へほどける。フォークを入れると、薄いパイが乾いた音を立て、クリームの中で斜めに崩れた。

きれいに食べる方法を、映奈は検索したことがある。横に倒して切ればいいらしい。けれど今夜は倒さなかった。

一番上の層だけをはがし、指でつまんで食べた。ぱり、と歯に割れる。次の層、その次の層も、クリームから引き離した。ひとかたまりに見えたケーキは、思ったより簡単に一枚ずつになった。

仕事も同じかもしれない、と映奈は思った。好きな雑誌で働くことと、ただで夜を差し出すこと。尊敬する編集長と、不正確な勤怠表。辞めたくない気持ちと、辞めなければ壊れる体。それらを一つの夢として飲み込む必要はない。

皿の上に、最後のパイが一枚だけ残った。クリームのついていない、まっすぐな長方形だった。

映奈はノートパソコンを開き、三か月分の入退館記録と給与明細を添付した。宛先は、昼休みに何度も開いて閉じた労働相談窓口。本文には、事実だけを四行書いた。

送信ボタンを押してから、最後の一枚を噛んだ。

薄くても、重ねられた時間は消えない。口の中で砕けた音だけは、今夜の映奈が確かに聞いていた。