老犬はチーズの匂いで起きる
動物病院の受付を終え、真壁咲良が帰宅したのは十一時半だった。
玄関では老犬のぶんたが眠っている。十四歳になって耳が遠くなり、鍵の音では起きない。咲良はしゃがんで背中を撫でたが、ぶんたは鼻だけ動かし、また寝息を立てた。
今日、待合室で飼い主に強く叱られた。診察が遅い、説明が足りない、具合の悪い犬を待たせるな。どれも不安から出た言葉だと分かっている。それでも帰り道まで、胸の内側に細い棘が残った。
冷蔵庫には冷やごはんと、少し乾いたハム、使いかけのチーズ。咲良はケチャップライスを炒め、卵を二個溶いた。
「夜中に二個は多いよね」
ぶんたは起きない。
「聞こえないふり、上手」
フライパンの卵が半熟になったところで、ごはんを包む。形は少し破れた。上からとろけるチーズをのせ、電子レンジへ入れる。扉を開けると、熱い乳の匂いと、ケチャップの甘酸っぱさが一気に広がった。
その瞬間、玄関で爪の音がした。
ぶんたがゆっくり立ち、台所まで来ている。
「鍵では起きないのに」
老犬は咲良の膝へ鼻先をつけた。チーズをもらえないことは知っている。ただ匂いの中にいたいらしい。
咲良はオムライスへ匙を入れた。溶けたチーズが糸を引き、卵とごはんの隙間を埋める。熱くて舌を少し火傷したが、その痛みは今日浴びた言葉より、ずっと扱いやすかった。
「待つの、つらいよね」
誰に言うでもなく呟く。
「でも、私も走ってたんだよ」
ぶんたは足元で伏せ、長い息を吐いた。
食後、咲良は病院の連絡ノートへ、明日から待ち時間の目安を受付で伝える案を書いた。今日の怒声を正しいことにはしない。ただ、明日の誰かの不安を少し減らす材料にはできる。
布団へ入ると、ぶんたが遅れて隣へ来た。鼻先にはまだ、チーズの匂いがついているようだった。咲良はその額へ頬を寄せ、温かな寝息が整うまで目を閉じていた。
ぶんたの体温は若い頃より少し低くなった。それでも鼻息が手の甲へ触れるたび、咲良の胸に刺さった棘は一本ずつ抜けていった。眠る前に水を一杯飲むと、火傷した舌にもやさしい冷たさが戻った。