耳まで切った食パン

北白川湧人が仕事を辞めたことを、養母の登美は知らない。

知られないうちに住民票だけ取りに来て、夕方の新幹線で戻るつもりだった。ところが玄関を開けると、台所から焦げた砂糖の匂いがした。

「ちょうどよかった。パンの耳、切って」

「何してるの」

「明日の町内会。フレンチトースト、二十人分」

登美は右手を包帯で巻いていた。転んで親指を捻ったらしい。湧人は黙って包丁を取り、食パンを四角く切った。

十二年前、彼がこの家へ来た最初の朝も、登美は同じものを焼いた。食べ方が分からず、湧人が耳だけ残すと、翌日から耳のないパンが出た。高校を卒業するころには「子ども扱いするな」と怒り、家を出て以来、正月にも戻らなかった。

卵液は薄く、フライパンは小さい。登美がひっくり返すたび形が崩れる。湧人は砂糖の袋を量らず傾け、登美に止められた。昔は甘い物を隠して食べたのに、今は甘すぎると言う。その変化を、登美だけが知っていた。

「貸して」

「昔は火を怖がったくせに」

「今は無職でも火くらい使える」

口が滑った。登美の手が止まる。湧人は、次に理由を聞かれると思った。

けれど登美は冷蔵庫から牛乳をもう一本出した。

「じゃあ朝の分も焼ける」

「俺、今日帰る」

「冷凍すればいい」

二人は夜まで焼いた。端が焦げたもの、中心が生っぽいもの、妙にきれいなもの。町内会用の箱が埋まると、登美は残った二枚を皿へ置いた。

湧人は片方を食べ、もう片方へラップをかけた。登美が自分の分だと思って手を伸ばす。

「それ、明日の俺の」

「新幹線は?」

「指定席、変更できる」

仕事のことも、家賃のことも、まだ話していない。登美も聞かない。ただ包帯の手で戸棚を開け、湧人が昔使っていた青い弁当箱を出した。

湧人は焼いたパンを詰め、冷蔵庫の二段目へ入れた。空いていた輪ゴムに、弁当箱と同じ青い印を付けた。登美が町内会用と間違えないためではなく、明日の自分が迷わないためだった。住民票は鞄にしまわず、食卓の端へ置いた。

翌朝ここから役所へ行けばいい。玄関に脱いだ靴の爪先を、外ではなく廊下へ向け直した。