聖水瓶の底にある名前

王都で流行した灰熱病に効くとして、神殿薬房の主任ゼルドは一本十万リルの《黎明の聖水》を売っていた。

「飲めば一晩で熱が引く。買えない者は、信仰が足りないのだ」

実際の中身は井戸水に香草を混ぜただけだった。高熱の娘を救おうと家畜まで売った農夫もいたが、娘の容体が悪化すると、ゼルドは「疑って飲んだから効かなかった」と追い返した。一方で、本物の解熱薬は富裕層へ高値で回していた。調薬師見習いのミレナは、病人の母を連れてきた少年へ無料の解熱薬を渡そうとしたが、ゼルドはその手を払い、薬を床へ落とした。

「貧民に本物を使うな。聖水を買わせろ。売上は私の奇跡として大司祭へ報告する」

彼は少年の前で、聖水瓶に自ら封印蝋を押した。偽物ではないと保証するため、主任だけが使える血印まで刻む。

ミレナは黙って破片を拾い、少年には別の薬房を教えた。自分の給金で本物を買えるよう、薬房名と値段も紙へ記す。ゼルドはその紙を見つけ、「慈善ごっこをするなら、お前も病人と一緒に追い出す」と踏みつけた。

翌朝、大司祭と王立衛生局の査察官が薬房を訪れた。ゼルドは胸を張り、聖水の製法は神託で得た秘法だと語る。

「では、その場でお作りください」

査察官が言うと、ゼルドは秘法を盗まれるから断ると答えた。そこでミレナが、売れ残りの瓶を一本、銀盆に置いた。

「この瓶は主任が昨夜封印したものです」

「だから本物だ!」

ゼルドが叫んだ瞬間、査察官は瓶底へ鑑定光を当てた。透明な底に、《北井戸・共同給水瓶・洗浄担当ゼルド》の文字が浮かんだ。再利用瓶には、洗浄した者の魔力名が残る。ゼルドは自分で井戸水を詰め、自分で封印し、自分の血印で真正品だと保証していた。

さらに銀盆の記録水晶が、昨夜の言葉を再生した。

――貧民に本物を使うな。聖水を買わせろ。

ゼルドは血印を偽造されたと喚いた。大司祭は瓶を持ち上げ、血印と彼の指を並べる。

「神殿薬房主任ゼルド。聖印剥奪ならびに王都追放命令を宣告する」