花嫁を運ぶ車

私は、壱絵さまを婚礼の門まで運んだ。

十四の春から、女学校、琴の師匠、観劇会へと人力車を引いた。華族の娘と車夫。話すべきことなど本来なかったが、壱絵さまは車上から、読んだ本や嫌いな菓子や、家で飼えない犬の話をした。

私は落ちていた教科書を拾って字を覚え、返すときだけ感想を挟んだ。彼女は笑った。その笑顔を一度見るためなら、坂道も軽かった。

婚礼の日、白無垢の壱絵さまは言った。

「川沿いを回ってください」

「お式に遅れます」

「今日くらい、家の時計に逆らわせて」

雨上がりの道を、私はゆっくり走った。嫁ぎ先は銀行家の長男で、傾いた家を救う縁談だった。断れば、屋敷で働く者たちまで路頭に迷うと聞いていた。

橋の上で、壱絵さまが幌を上げた。

「弦伍。あなたが好きです」

足が止まりかけた。

「そのお名を、私のような者が呼ばれては」

「身分の話をしているのではありません。恋の話です」

「同じことです」

彼女は静かに首を振った。

「逃げてほしいとは言いません。私を連れ出せば、あなたは誘拐犯になり、私は家族を捨てた娘になる。恋だけを美しくして、あなたの人生を罪にしたくないのです。ただ、この気持ちまで家の都合に譲りたくなかった」

私は柄を握り直した。

「私も、壱絵さまをお慕いしております」

「やはり、さまをつけるのですね」

「それを外せる場所へ、私はあなたを連れていけません」

車輪を再び回した。

門前では婚家の者たちが苛立って待っていた。壱絵さまは降りる前、運賃とは別に小さな銀貨を一枚置いた。

「これは何です」

「名前を呼んでもらう代金です。一度だけ」

私は銀貨を返し、地面へ膝をついた。

「壱絵。好きでした」

彼女は泣かずに微笑んだ。

「私もです、弦伍」

門が閉じるまで、私は頭を上げなかった。

その後も何里もの道を走ったが、あの日の門前にあった一段の石段だけは越えられなかった。雨が降ると車輪の跡はすぐ消えた。

それでも、一度だけ敬称を外して呼んだ名は、老いて足が動かなくなるまで、胸の中から消えなかった。