花嫁鏡は間違えない
十文字夕映が嫁いだ家には、代々の花嫁が使ったという鏡台があった。
婚礼の夜、姑は夕映を鏡の前へ座らせた。
「この鏡には、いつかこの家で暮らす人が映るの。知らない顔があっても、怖がらないで」
鏡の中には、夕映と夫のほかに、見知らぬ若い女が立っていた。
肩までの髪に、左目の下の小さなほくろ。女は夫のすぐ隣で、穏やかに笑っている。
「未来の娘かしら」
夕映が言うと、姑も夫も答えなかった。
三年後、夕映は男の子を産んだ。
鏡の女は年を取らなかった。家族で鏡の前に立つたび、少しずつ夕映との距離を縮めた。
十年目の春、夫が息子の家庭教師を連れてきた。
肩までの髪。左目の下のほくろ。鏡にいた女だった。
家庭教師は初日から食器の場所を知り、夫が紅茶に砂糖を入れないことも、息子が夜中に咳き込むときの薬の場所も知っていた。夫は「事前に教えた」と言った。
夕映は偶然だと思おうとした。
だが鏡の中では、家庭教師が夕映のエプロンを着て台所に立ち、夕映の結婚指輪をはめていた。息子は彼女を「お母さん」と呼び、夫はその肩へ手を置いている。
現実の夕映だけが、日ごとに薄くなった。
最初は指先、次に足元。やがて鏡には、夕映の顔だけが水染みのように残った。
鏡台の裏板を外すと、古い写真が一枚落ちた。
若い夫と、夕映の知らない花嫁の婚礼写真だった。
その背後の鏡には、二十代の夕映が立っている。夫と出会うより五年も前の姿で、左手にはまだ結婚指輪がない。
写真の裏には、震えた字で書かれていた。
〈鏡に次の女が映ったら逃げて〉
〈私は、あの人がこの家へ来るまでだった〉
夕映が荷物をまとめていると、寝室の鍵が外から掛けられた。
扉越しに夫が言った。
「鏡を剥がしたんだね」
「前の奥さんは、どうなったの」
夫はしばらく黙ったあと、困ったように笑った。
「君も、鏡に映ったときから知っていたでしょう」
廊下には、家庭教師と姑の話し声がした。
「今度の花嫁は、鏡を怖がらない子だといいわね」
鏡の中で、夕映の顔が完全に消えた。