花束の番犬は黙っている
私は麦。十二歳の雑種犬で、花屋「野の鈴」の番犬をしている。
番犬といっても、吠えるのは宅配便の台車だけだ。客には尾を振る。店主の波佐間紫乃には、もっと振る。
彼女は人の言葉を話すが、自分の言葉を聞くのは苦手だ。
母の日の翌朝、店は戦の跡のようだった。
床には切った茎、作業台にはリボン、紫乃の髪には霞草が一本刺さっている。
「全部届けられたね」
彼女は笑った。
違う。最後の一束が冷蔵庫に残っている。注文のキャンセルで行き先を失った、薄桃色の芍薬と白いフリージアだ。
私は冷蔵庫の前へ座った。
「麦、ごはんはさっき食べたでしょう」
そうではない。
扉を鼻で押す。
「中には入れないよ」
入る気もない。
もう一度押すと、ようやく紫乃が花束を見つけた。
「これは明日、ばらして売ろう」
彼女はそう言ったが、声がしぼんでいた。
私は知っている。紫乃は昨日、朝四時から働き、昼食を立ったまま済ませ、最後の配達を終えて戻ってきたとき、「今年も自分には誰も花をくれなかった」と小さく呟いた。
母ではないから、もらわなくて当然だと続けた。人間は、寂しいときほど理屈を添える。
私は花束の前で伏せた。
「欲しいの?」
犬に芍薬は必要ない。
「誰かにあげたい?」
そうだ。目の前の鈍い人へ。
紫乃は私の視線と花束を交互に見て、やっと笑った。
「まさか、私に?」
尾を一度だけ床へ打つ。やっと正解だ。
彼女は包装をほどかず、店の奥の小さなテーブルへ花束を置いた。欠けたマグに湯を注ぎ、カモミールティーを淹れる。私は足元へ丸くなった。
芍薬はまだ固いつぼみだった。フリージアから、少し青く甘い香りがする。
「麦、ありがとう」
私は返事をしない。犬が花を贈ったなどと知られたら、番犬の威厳に関わる。
代わりに、彼女の膝へ顎をのせた。
三日後、芍薬が開いた。
紫乃は店先の黒板へ「自分用の一輪も包みます」と書いた。以前はなかった一文だ。
客のいない午後、彼女は余った小さな花を自分のエプロンへ挿した。私はその姿を見て、満足して眠る。
鼻先にはフリージア、耳元には湯を注ぐ音。紫乃の手が背を撫でるたび、店いっぱいの花よりも温かな匂いがした。