蛍烏賊の灯り
リリースまで、あと九時間十一分。
水城航平のスマートフォンには、会社のカウントダウン通知が表示されていた。二週間かけた決済機能を、翌朝六時に公開する。チーム全員が「問題なし」と書き込む中で、航平だけが一つの違和感を抱えていた。
日付をまたぐ瞬間、まれに二重送信になる。
再現したのは一度だけ。ログも薄い。今さら言えば公開延期になり、自分の確認漏れが明るみに出る。黙っていれば、何も起きない可能性のほうが高い。
終電前、航平は会社近くの居酒屋へ入った。暖簾をくぐると、席は空で、店主が季節札を書き替えていた。
「蛍烏賊の陶板焼き、まだありますか」
「一人前だけ」
小さな陶板が火にかけられる。丸い胴が熱でふくらみ、ぷち、と一匹が弾けた。潮の濃い匂いが湯気に混じり、醤油の焦げる香ばしさが鼻の奥へ届く。青白い目だけが、黒い皿の上で小さく光って見えた。
航平は一匹つまんだ。表面は張りがあり、噛むと中のわたが熱くほどけた。甘さのあとに、海藻のような苦みが残る。
「下処理、大変そうですね」
店主は徳利を並べながら答えた。
「目は取ります。わたは残します」
航平は笑いかけて、笑えなかった。
スマートフォンを伏せても、画面の裏にカウントダウンが透けている気がした。彼は会社のチャットを開く。最初に「念のため」と打ち、消した。「軽微ですが」も消した。
〈日付変更時に二重送信の可能性があります。再現は一回。確認不足でした。ログと暫定の再現手順を添付します。公開判断を止めてください〉
送れば、朝まで調査になる。評価も下がるだろう。けれど、公開後に誰かの口座から二度引かれたら、その人にとっては「まれ」ではない。
航平はログを添付し、送信した。
航平は陶板の縁へ箸を置き、チームから来る通知を一つずつ開いた。責める文はまだない。ただ、調査担当を決める短い返事が並び、自分も朝まで残ると書き足した。
すぐに既読が三つついた。返信が来る前に、陶板の火が落ちた。最後の蛍烏賊はぬるくなりかけていたが、噛みしめると、わたの苦みだけははっきり熱を持っていた。