解約前の留守番電話
史佳が古い携帯番号を解約するのは、午前零時だった。
二年前、仕事に行けなくなった時期がある。カーテンを閉め、誰のメッセージにも返せず、付き合い始めたばかりの瑛生からの着信まで無視した。三か月後に社会へ戻ったとき、最初にしたのは謝罪ではなく番号の変更だった。今さら事情を話すのは、傷つけた側が楽になりたいだけに思えた。
引き出しから昔の端末を出すと、未保存の留守番電話が一件残っていた。
《返事はいらない。ただ、生きてるって分かればいい》
再生日時は、史佳が消えた翌週だった。声の後ろには、彼がよく通っていた喫茶店の食器音が入っている。何度かけても出ない相手に、いつもの場所から話していたのだと思うと、保存も削除もできなかった。
解約手続きの画面には《残り十四分》と出ていた。契約が切れれば、留守番電話も番号も復元できない。史佳は端末を両手で持ち、鳴らないでほしいと思いながら、鳴ることだけを待った。
二十三時四十六分、古い端末が鳴った。表示されたのは瑛生の名前。共通の友人から、今夜で番号が消えると聞いたらしい。
「出ないと思ってた」
「私も」
「どうして、何も言わなかった」
「もう遅いから」
沈黙の向こうで、駅の発車ベルが鳴った。瑛生は終電に乗るところだった。
「遅いかどうか、史佳だけで決めるの?」
「二年だよ」
「二年でも、聞かないよりいい」
「もう遅いよ」
通話可能時間は残り九分。逃げるように切れば、この番号と一緒に全部消せる。けれど瑛生は怒鳴らず、許すとも言わず、ただ待っていた。
史佳は、休職したこと、歯磨きさえできなかった朝のこと、着信音が責める声に聞こえたこと、彼の声を聞くと元の自分へ戻りたくなって余計に怖かったことを、短く話した。言い訳にならないよう、説明を一つずつ机へ置くみたいに。
「ごめん」
「うん」
「もう遅い。でも、遅いまま終わらせたくない」
零時まで三分。瑛生の乗る電車が動き出す音がした。
史佳は留守番電話を端末からパソコンへ保存した。新しい番号をメッセージで送り、古い端末が圏外になる前に、こちらからもう一度だけ発信した。