解約日のプロポーズ
住吉透は、出勤前に《ふたりの記憶》を一件だけ再生する。恋人の美環と初めて会った雨の日だ。傘を忘れた彼女が、コンビニの軒下で「半分、入れて」と笑う。再生するたび、濡れたアスファルトの匂いまで鮮明だった。
恋人同士の共有記憶は共同契約になり、解約した場合、累計支払額の多い側だけが原本を引き継ぐ。それがサービスの規則だった。二人は割り勘にしているつもりだった。
その夜、透は指輪をポケットに入れ、駅前のレストランへ向かった。予約した窓際の席は、三年前に美環が「夜景が安っぽくて好き」と言った場所だった。プロポーズの言葉は何度も練習したが、記憶には保存しなかった。今日くらいは、失敗も含めて自分の頭だけで持ちたかった。
予約時刻の十分前、美環からメッセージが来る。
〈今日は行けない。ごめん〉
続いて、見慣れない通知が表示された。
〈共同契約者が解約を申請しました〉
〈累計負担率 住吉透:12%/深町美環:88%〉
〈原本は深町美環へ移管されます〉
透は足を止めた。家賃も食費も割り勘だった。記憶の料金だけは、毎月二人の口座から同額が落ちていると思っていた。
明細を開く。自分の支払いは三年前の最初の一か月だけで、その後は残高不足のたび、美環が自動で肩代わりしていた。透の端末には成功通知しか届かない設定になっていた。彼女はその設定を、透が失業した冬に変えていた。
電話をかけても出ない。部屋へ戻ろうとして、二人の住所が美環の単独契約へ変更済みだと知った。代わりに契約終了の確認画面が開く。
〈移管後、負担率の低い利用者は共有記憶へのアクセスを失います〉
〈写真・贈答品・感情反応は削除対象外です〉
カウントダウンは三十秒。
透は雨の日をもう一度再生した。美環は軒下で笑い、傘へ入る前に何か小さくつぶやいた。今まで気に留めなかった言葉が、最後だけ聞こえた。
「この人なら、忘れても好きでいられるかな」
画面が暗くなった。
透は駅前に立ち、なぜ胸が潰れそうなのか分からないまま、ポケットの指輪を握っていた。内側に刻んだ名前を読めても、それが誰なのか分からない。待っている相手だけが、そこからきれいに抜け落ちていた。