言葉が病む前に

仁科千景の部屋には、物の名前を書いた札が増えていった。

〈窓〉

〈椅子〉

〈冷蔵庫〉

〈鍵〉

進行性の病気によって、諸星慶司は少しずつ言葉を失っていた。最初に出てこなくなったのは果物の名前だった。次は駅名。やがて千景を呼ぶ前に、長い沈黙が必要になった。

慶司は辞書の編集者だった。

「言葉を並べる仕事なのに、順番に返却してるみたいだ」

そう笑えた頃、二人はまだ病気を冗談にできた。

診断から一年後、慶司は録音機をテーブルへ置いた。

「別れたい」

千景は録音を止めた。

「聞かなかったことにする」

「聞いて」

「言葉がなくても一緒にいられる」

「君なら、いる」

「当たり前でしょう」

「だから、頼みたくない」

慶司は何度も息を整えた。言葉が途中で崩れないよう、一文ずつ区切った。

「この先の僕が、君を嫌うかもしれない。怖がるかもしれない。名前を言えなくなるかもしれない。そのたび君は、昔の僕の気持ちを代わりに説明する」

「それの何が悪いの」

「僕の沈黙を、全部愛だと訳さないでほしい」

千景は泣いた。

「では、今の気持ちは」

「好きだ」

「それなのに別れるの」

「好きだと言えるうちに、自分で決めたい」

彼は県外に住む姉の近くへ移り、支援を受けながら暮らす予定だった。千景が仕事を辞めてついていくと言う前に、慶司は住居も手続きも決めていた。

「ずるい」

「知ってる」

「私に選ばせない」

「君は残ることを選ぶ。僕は、それを望まないことを選ぶ」

最後の夜、二人は札を外して回った。

椅子。窓。冷蔵庫。

玄関の横には、千景が冗談で貼った〈恋人〉という札があった。

慶司はそれを剥がし、裏へ何かを書いた。

文字は少し震えていた。

〈千景。好きだった人。忘れても、嘘にはならない〉

三か月後、駅で偶然、二人はすれ違った。

慶司は足を止めたが、名前は出てこなかった。代わりに、困ったように微笑んだ。

千景も微笑み返し、声をかけなかった。

別れの日に彼が守ろうとした選択を、今度は自分が守った。

帰宅して録音を再生すると、慶司の声が残っていた。

「好きだ。だから、別れたい」

残酷な一文だった。

けれど彼が最後まで自分の言葉で選んだ、二人の関係に置かれた最後の名前でもあった。