赤いボールを拾う前に

 河原の芝生を、赤いゴムボールが跳ねていく。

「俺が取ってくる」

 兄の岳が立ち上がった。

 朔也の喉に、十一年前の川水がよみがえった。前の人生でも同じ弁当箱が開き、同じ風が吹き、姪のボールが斜面を転がった。岳は笑って追い、増水した流れに足を取られた。朔也は「頼んだ」と答えた自分の声を、葬式の間じゅう聞き続けた。

 目覚めた今朝、カレンダーはあの日に戻っていた。人生を立て直す気はなかった。会社も借金も失恋も、後でどうにでもなる。変えるのは、この十秒だけでいい。

 昼までの出来事は何一つ変えなかった。兄が焦がした肉も、姪がこぼしたジュースも、そのままにした。大きく動けば別の事故を呼ぶ気がしたからだ。狙うのは、赤い球が兄の靴先を追い越す一瞬だけだった。

「俺が取ってくる」

 兄が一歩踏み出す。

「頼まない」

 朔也は膝の上の二段弁当を閉じ、転がってきた赤い球の進路へ滑らせた。重い箱が芝を削り、ボールは川へ落ちる寸前で角に当たって止まった。

 岳が目を丸くする。

「弁当を盾にする奴、初めて見た」

 姪が駆け寄ろうとしたので、朔也は片腕で抱き留めた。直後、ボールの向こう側で芝が裂け、黒い土がのぞく。見た目は穏やかでも、流れは岸の下を深くえぐっていた。

「兄貴を盾にしたことがある奴よりましだ」

「何の話だよ」

 朔也は答えず、ボールを拾った。足元では、昨夜の雨で崩れた土が音もなく川へ落ちていく。岳が踏み込むはずだった場所ごと、茶色い流れに消えた。

 岳は冗談をやめ、朔也の肩をつかんで岸から二歩下げた。前の人生では自分が引き上げようとして届かなかった手が、今度は生きた力で朔也を守っている。姪も二人の間で赤い球を抱えた。

 午後二時二十二分。

 前の人生で警察から電話が来た時刻に、朔也のスマートフォンが震えた。指が冷たくなる。兄はすぐ隣で姪の靴紐を結んでいるのに、体が昔の恐怖を覚えていた。

 画面に出たのは岳からの写真だった。潰れた卵焼きを箸で持ち上げ、ひどい顔をしている。

《弁当代はお前持ちな。あと、次は俺より先に動け》

 隣にいるはずの兄から届いた、初めての未来のメッセージだった。