赤い看板を伏せる夜
台風のあと、レコード店「ハレーション」の赤い看板は、片方の鎖だけで軒先にぶら下がっていた。客より先に苦情が来る、と宇佐見凪人は思った。もっとも、この三日で来た客は二人だった。
店長は仕入れ先への支払いで出ている。残った従業員は宇佐見と江波だけ。二人は脚立を出し、看板を下ろすことにした。
「そっち持って」
「持ってます」
「持ってる人の声じゃない」
江波は口が悪い。先月、勤務日を半分にすると告げられたときも、「嫌なら先に逃げれば」と言った。宇佐見はその言葉どおり、来週から倉庫会社で働く。まだ誰にも伝えていない。
看板は見た目より重かった。錆びたボルトが回らず、雨水が袖へ流れ込む。二人で肩を差し入れ、少しずつ傾けた。途中、宇佐見の靴が滑った。江波がベルトを掴み、看板の角が壁を削った。
「盤より自分を守って」
「これ、創業時からのやつでしょう」
「人間の替えは、看板より高い」
店内へ運び込むと、赤い塗装は大きく剝げていた。江波は古い試聴台を養生し、宇佐見は紙やすりをかけた。閉店音楽の代わりに、針の傷んだジャズ盤を回した。片面が終わるまでに錆を落とし、もう片面で下塗りをした。
「倉庫、夜勤?」
江波が突然聞いた。宇佐見の手が止まった。
「求人票、エプロンのポケットに入れっぱなし」
「見たんですか」
「洗濯したから」
江波はそれ以上言わず、看板の裏に翌日の塗料の配合を書いた。赤二、黒一。宇佐見が覚えたばかりの、この店の色だった。
看板を乾かすため、二人は床へ伏せて置いた。表からは店名が見えない。明日晴れても、再び掲げられるかは分からなかった。
帰り際、宇佐見は自分の工具袋を持ち上げた。倉庫の仕事にも使える。だが、江波が袋から刷毛だけ抜き、看板の横へ置いた。
「二度塗り、朝八時」
宇佐見は袋を閉じた。刷毛を取り返さず、シャッターの隙間から赤い裏面を一度見た。新しい職場の初日は来週だ。それでも明日の朝、最初に開ける鍵は、まだ雨の匂いが残るこの店のものだった。