辞令の裏に四月

コピー室の時計が十七時五十分を示した。国見慶一の送別会は十八時から始まる。名古屋支社への転勤を祝う会だが、慶一はまだ自分の辞令を百枚目の紙のように見つめていた。

扉が開き、相原真澄が黒い傘を持って入ってきた。

「これ、うちにあった」

「捨ててよかったのに」

「あと、鍵も」

傘の柄に、慶一の部屋の合鍵が輪ゴムで留められている。雨の日に初めて泊まった真澄が、「次から借りなくて済む」と笑って持ち帰った鍵だった。

「転勤、自分で希望したんだってね」

「聞いたのか」

「人事に同期がいるから」

一か月前、慶一は真澄に、会社を辞めて実家の店を手伝い、結婚しないかと聞いた。真澄は少し黙ってから「それは考えられない」と答えた。慶一は翌朝、名古屋への異動願いを出した。真澄が置いていった歯ブラシも、二人で選んだ鍋も、その日のうちに見えない棚へしまった。先に片づければ、断られた事実まで小さくなると思った。

「俺がいないほうが、試験にも集中できるだろ」

「何の話?」

「税理士の。結婚より大事なんだろ」

真澄は傘を床に立てた。濡れていない先端が、白い床を小さく叩く。

「私が考えられないって言ったのは、仕事を辞めること。結婚じゃない」

廊下から乾杯用の瓶を運ぶ音がした。

「だったら、そう言えばよかった」

「言おうとした。慶一が『分かった』って帰ったから」

「追いかけられただろ」

「そっちも振り返れた」

十七時五十七分。二人とも、それ以上は言えなかった。

真澄は辞令を取り、裏返した。鉛筆で薄く、〈四月、名古屋事務所への転籍相談可〉と書いてある。彼女の資格講座が提携する事務所のメモだった。

「今日、合格したら正式に話すつもりだった」

慶一の携帯が震えた。人事からだった。〈異動辞退の受付は本日十七時四十五分で終了しました〉。相談していた同期が、五分遅れで返した答えだった。

十八時、会議室から拍手が上がる。

真澄は鍵を傘から外し、慶一の掌に置いた。「おめでとう」と言って背を向けた。

慶一は呼び止めなかった。辞令の裏の四月を見たまま、彼女の鍵を自分の鍵束から外した。二つの鍵が触れた音だけを残し、片方を返却封筒へ落とした。