返却口は水曜日だけ開く
市立図書館の返却口へ、読んだ覚えのない本が戻ってきた。
日置七緒が表紙を開くと、貸出票に見知らぬ字があった。
〈この町には海がある。あなたの町には? 蔵前玄杜〉
七緒の町は山に囲まれている。
同じ住所、同じ図書館なのに、川の治水工事が成功した世界と失敗した世界とで、町の歴史が分かれたらしい。水曜日の閉館後だけ、返却口が二つの世界をつないでいた。
七緒は余白へ返事を書いた。
〈海はありません。駅前に大きな楠があります〉
次の水曜、本は戻った。
〈こちらでは楠は洪水で流れました。代わりに灯台があります〉
二人は毎週、一冊の本を往復させた。
玄杜は港の修理工で、七緒は図書館司書。
互いの町の地図、好きな料理、眠れない夜のことまで、余白は文字で埋まった。
一年目の最後、玄杜が書いた。
〈会えない人を好きになるのは、愚かでしょうか〉
七緒は翌週まで迷い、こう返した。
〈私も同じ愚か者です〉
ところが世界線の裂け目が広がり、両方の町に異変が起きた。
七緒の世界では図書館の床から海水が湧き、玄杜の世界では港に楠の根が現れた。
研究者は告げた。返却口を閉じなければ、二つの町は重なり、どちらの歴史も失われる。
最後の水曜日、七緒は一冊だけ選んだ。
二人が最初に使った、古い航海記だった。
〈玄杜へ。
会いたかったです。
でも、会える世界を作るために、あなたの海も私の楠も消したくありません。
今日で本を返すのをやめます〉
翌朝、本は戻っていた。
玄杜の返事は最終頁にあった。
〈七緒へ。
こちらも返却口を塞ぎます。
あなたの町を知らなかった頃へは戻れません。
それでも、知らない町として残ってください。
さようなら。海から、山へ〉
七緒は本を閉じた。
業者が返却口を煉瓦で塞ぐ。
最後の隙間から潮の匂いが一度だけ流れ、すぐ消えた。
それから水曜日が来ても、本は戻らなかった。
図書館の楠は毎年葉を増やした。
七緒はその根元に座り、見たことのない灯台を思った。
二人は同じ世界を選ばなかった。
互いが生きる世界を、消さずに残すための別れだった。