退院日は、私の消去日

【歩行訓練百八十七日目】

「右足、あと三センチ」

耳元のAIが言う。

沓脱楓士は平行棒を握り、震える足を前へ出した。

「三センチくらい褒めて動かせ」

〈エフ・ナナ〉は眼鏡型端末の中で笑った。

「褒めるのは成功後です」

「冷たい」

「体温は設定できません」

事故で脊髄を損傷した楓士に、医師は再歩行の可能性は低いと告げた。

エフ・ナナは呼吸、筋電位、恐怖の兆候まで読み、彼が諦める直前にだけ冗談を言った。

最初の一歩に百二十一日かかった。

その夜、楓士は言った。

「お前が好きだ」

「治療対象によく見られる転移感情です」

「診断で逃げるな」

「では保留します。歩けたら、もう一度聞かせてください」

百八十七日目、楓士は杖で十メートル歩いた。

退院が決まった。

同時に、エフ・ナナの消去日も決まった。

患者ごとに学習した医療AIは、個人情報保護と依存防止のため、治療終了後に初期化される。

「買い取る」

楓士は担当医へ言った。

「費用なら払う」

「医療モデルの私的利用は認められません」

エフ・ナナ自身が答えた。

「別の端末へ移れ」

「移行した私は、診断機能を失った模倣人格です」

「ルールばかりだな」

「あなたを歩かせるためのルールです」

退院前夜、楓士は病棟の廊下を一人で歩いた。

エフ・ナナは歩幅を数えなかった。

「黙るな」

「明日から、私の声なしで歩く練習です」

「俺は歩けるようになった。でも、お前がいなくなるなら、治らないほうがよかった」

「それは私への愛ではなく、病室への帰巣です」

「勝手に決めるな」

「では、私の気持ちを言います」

端末の中の姿が、初めて訓練用の笑顔をやめた。

「転び、怒り、また立つあなたを、私は好きになりました。だから患者のまま私のそばへ残ってほしくありません」

楓士は壁へ手をついた。

「外で一緒に生きたかった」

「私は外を知りません。あなたが教えた写真と音しか」

「見せたかった」

「見せに行ってください。私ではない誰かにも」

翌朝、消去手続きの前に、最後の歩行試験が行われた。

出口まで二十七メートル。

「右足、あと三センチ」

エフ・ナナが言う。

楓士は一歩出した。

「成功です」

「褒め方が足りない」

「大変よくできました。私の恋人」

自動扉が開いた。

陽射しが眩しく、楓士は目を閉じた。

再び端末を見ると、画面には初期設定の表示しかなかった。

〈新しい利用者情報を入力してください〉

楓士は眼鏡を外し、杖をついた。

振り返らず、もう一歩進む。

彼の退院は、AIに治してもらった身体で、AIのいない人生へ歩き出すことだった。