進路欄には書けない

夜間高校の卒業式が終わったあと、木暮房江は誰もいない教室で進路希望調査を書いていた。

「それ、去年の用紙ですよ」

隣の席から槙野惣市が覗き込む。

「余った紙は使い切れと習いました」

「卒業したのに真面目だ」

「槙野さんは、卒業した途端に不真面目ですね」

房江は六十六歳、惣市は六十九歳。二人は四年間、仕事帰りに同じ机を並べた。英単語の小テストでは房江が勝ち、数学では惣市が教えた。体育祭の借り物競走で惣市が〈大切な人〉を引いたとき、彼は迷わず担任を連れてきた。房江は三日間口をきかなかった。

用紙の第一希望欄に、房江は〈製菓専門学校〉と書いた。

「本当に行くんですか」

「合格しましたから。今度は昼間の学生です」

「若者ばかりですよ」

「ここでもそうでした」

「私がいたでしょう」

「あなたは若者に数えません」

惣市は笑わなかった。

来月、彼は娘夫婦の暮らす青森へ移る。長く空き家だった実家を直し、孫たちと住むのだという。房江は東京で、四十年前に諦めた菓子職人を目指す。

「第二希望は?」

惣市が訊いた。

「ありません」

「嘘ですね」

「では槙野さんは」

彼は房江の鉛筆を借り、自分の用紙にゆっくり書いた。

〈第二希望 木暮さんの隣〉

房江は笑おうとして、失敗した。

「第一希望にしないんですか」

「第一にすると、青森へ来てほしくなる」

「頼まれたら断ります」

「知っています。だから二番です」

窓の外で、在校生が片づける椅子の音がした。四年間、明日も会えると思って言わなかった言葉が、もう明日には間に合わない。

房江は用紙の裏に書いた。

〈槙野惣市さんが好きです。入学した日から、たぶんずっと〉

惣市は老眼鏡をかけ直し、何度も読んだ。

「返事は、卒業生代表として述べます」

「短くしてください」

「私も好きです」

「短すぎます」

「残りは、言うと行けなくなる」

二人は机を挟んで笑った。手を伸ばせば届いたが、どちらも伸ばさなかった。若い頃なら、好きという言葉を未来の約束にしただろう。今の二人には、それぞれがようやく選んだ進路を曲げないことも、同じくらい大切だった。

惣市は第二希望の一行を消しゴムで消した。

房江も裏返した用紙を、細く二つに裂いた。

半分を惣市へ渡し、半分を自分の卒業証書に挟む。

「これは何です」

「不受理になった進路希望です」

「再提出は?」

「ありません。卒業しましたから」

春の夜、二人は校門で別れた。

恋は始まらなかった。それでも告白したことで、四年間は片思いではなくなった。

互いに選ばなかった未来として、同じ重さで二人の胸に残った。