金色一列の朝餉
ビアンカが伯爵家を出たとき、持ち出せたのは古い鎌と、辺境の休耕地の権利書だけだった。
婚約を断った罰として渡された土地には、腰まである草が揺れていた。屋敷の者は「三日で泣いて戻る」と笑った。
それから一季節。
雨の日は小屋の窓から芽を数え、晴れの日は土をほぐした。鹿に踏まれた場所は植え直し、倒れた茎は一本ずつ起こした。誰かに褒められるためではない作業が、日を重ねるほど自分の時間になった。
初夏の朝、草原だった場所の真ん中に、金色の小麦が一列だけ立っていた。
ビアンカは鎌を握り直した。
今日は畑全部を刈るのではない。自分で耕し、自分で蒔いた、最初の一列だけだ。
刃を引くと、茎がさくりと切れた。穂を腕に抱く。乾いた麦の匂いが胸元で弾ける。
二束、三束。手袋の隙間に穂先が刺さっても、嫌ではなかった。
刈った跡には短い茎が整然と並び、朝日を受けて淡く光った。たった一列なのに、振り返ると道を一本作ったように見える。ビアンカは鎌を置き、腰の痛みごとその景色を眺めた。
伯爵家では毎朝焼きたてのパンが並んだが、それを作る手のことを考えたことはない。今は一本の穂さえ、誰にも命じられず自分が得たものだった。
刈り終えた束を板に打ち、粒を落とす。小さな手回し石臼で挽くと、白くはない粉が皿にたまった。
水と塩を混ぜ、薄く伸ばし、鉄鍋へ置く。
ぱち、と気泡が弾けた。香ばしい匂いが、小さな小屋の梁まで上がっていった。
そのとき、街道から馬車が来た。
降りた執事は、かつてビアンカに結婚の日取りを告げた男だった。
「お嬢様。伯爵閣下が、お戻りになれば今回のことは不問にすると」
「今回のこと?」
「その……家を出たことです」
差し出された書状には、見慣れた家紋があった。
ビアンカは受け取ったが、開かなかった。ちょうどパンの片面が焼け、返さなければ焦げるところだったからだ。
木皿にのせ、山羊乳のチーズを置く。熱で端がゆっくり溶ける。
一口かじると、外はぱりり、中は少し粗く、噛むほど麦の甘みが出た。
「返事を、お待ちしております」
「では待っていて。朝餉が終わるまで」
執事が絶句する前で、ビアンカは二口目をかじった。
金色の一列はもう刈られていたが、その香りは、誰にも取り上げられない朝として彼女の掌に残っていた。