鉛筆線の向こう
久世佐理は、雨読堂のいちばん奥で、一冊の植物図鑑を見つけた。布張りの背は日に焼け、金文字の題名は半分消えていた。ページを開くと、野草の説明よりも細い鉛筆線のほうが目についた。
線を引いたのは、昨年亡くなった大学時代の指導教員だった。癖のある小さな丸と、句読点の代わりに置く短い斜線。佐理は卒業論文を何度も赤字で返されたから、その筆跡を見間違えなかった。
教授はこの古書店へよく通っていた。店主によれば、専門書ではなく、庭や料理や旅の本ばかり買ったという。研究室でしか知らなかった人にも、説明されない時間があったのだと、佐理は図鑑をめくりながら思った。
最後の見返しには、鉛筆で四角い枠が引かれていた。中は空白だった。何かを書こうとしてやめたのか、読む人のために残したのかは分からない。教授なら答えを決めつけるなと言っただろう、と考えたところで、佐理は自分がまた教授の声を借りようとしていることに気づいた。
鞄の中には、大学院の募集要項が入っていた。社会人三年目で会社を辞め、研究へ戻る。その願いを口にするたび、母にも同僚にも「今さら」と言われた。佐理自身も、その二文字を便利に使って、出願書類の志望理由だけ空欄にしていた。
会社では商品説明を書く仕事をしている。文章は毎日書くのに、自分が調べたいことだけは「採算がない」と脇へ置いてきた。教授へ相談できたなら、と考えるたび、もういない人の許可を待つ形になっていた。
店主は図鑑を検品すると、値札の横にあった「書込み多し」の札を外さなかった。代わりに、透明なカバーを掛け、表紙が見えるよう紐を縦に一本だけ結んだ。会計のあと、領収書を図鑑の最後ではなく、空白の枠がある見返しへ挟んだ。
佐理が店先で本を開くと、領収書の裏は何も印刷されていなかった。雨の粒が庇から落ち、その白さの上に一つだけ丸い跡を作った。
彼女は鞄から募集要項を出した。志望理由の最初の行に、「今さらではなく、今から」と書いた。教授の筆跡には似せなかった。