鍋底の家系図
祖母の遺言で、江波戸莉世に譲られたのは、両手でなければ持てない黒焦げの大鍋だった。
叔父には腕時計、叔母には真珠、従姉には着物。
「莉世は料理が苦手だから、練習しろってことね」
親族が笑うなか、莉世だけは笑えなかった。祖母は、最後まで自分を頼りない孫だと思っていたのだ。宝石より鍋が似合うと言われたようで、帰りの電車でも腹が立っていた。
鍋を持ち帰って洗うと、台所が煤だらけになった。三時間こすっても黒さは落ちない。腹を立てて金属たわしを投げた拍子に、鍋底の文字へ気づいた。
〈昭和五十八年 台風 十四人〉
〈平成九年 長兄失業 八人〉
〈平成十六年 莉世誕生 十一人〉
〈令和二年 店休業 二十三人〉
焦げの下には、日付と人数がびっしり刻まれていた。
母に聞くと、祖母は家族に何かあるたび、この鍋で食事を作ったという。停電した夜も、叔父が職を失った日も、親戚の店が休業したときも。
「食べる人数が増えると、おばあちゃんは水とじゃがいもを足したの。味は毎回変わったけど、不思議と誰も文句を言わなかった」
蓋の裏には、油紙が貼りついていた。剥がすと、祖母の字が現れた。
〈人数が合わないときは、合うまで誰かを呼ぶこと。鍋が焦げたら、話が長かった証拠。〉
その週、遺産分けをめぐって叔父と叔母が喧嘩した。莉世は二人へ電話をかけた。
「晩ごはん、食べに来て。鍋が大きすぎるから」
従姉も母も来た。それでも余ったので、隣の老夫婦と、配達に来た青年まで呼んだ。
莉世のカレーは薄く、じゃがいもは半分煮崩れた。叔父は「母さんの台風カレーもこんな味だった」と笑い、叔母は真珠を外して涙を拭いた。
食後、鍋底に新しい文字を刻んだ。
〈令和八年 相続喧嘩 九人〉
「人数、十人じゃない?」と従姉が言った。
莉世は祖母の空いた席を見た。
「九人でいいの。おばあちゃんは、鍋の中にいるから」
その夜も鍋は焦げた。
遺言どおり、莉世にいちばんふさわしい遺品だった。彼女は料理が苦手で、話を終わらせるのも苦手だったから。