鍵の色を選ぶ

宮地透子は、不動産会社のカウンターで二本の鍵を見比べていた。

青い札の鍵は、駅前の新築マンション。宅配ボックス、二重のオートロック、白い廊下。黄色い札の鍵は、商店街の裏にある築三十八年の部屋。階段は狭く、窓枠には古い傷があった。

どちらも審査に通った。今日中に片方を選ばなければならない。

透子は最初、青い鍵を選ぶつもりだった。二十九歳になり、いつまでも学生時代からの商店街にいるのは、前へ進めていないように感じていた。新しい町なら、知らない店で買い物をし、知らない道を歩き、少し違う人になれるかもしれない。

けれど夜の内見で、青い部屋の窓を開けても音がしなかった。眼下の灯りはきれいだったが、どの建物にも知っている人はいない。黄色い部屋では、向かいのパン屋が翌朝の生地をこねる音が壁越しに聞こえた。店主は透子に気づき、「今度は二階の人?」と粉だらけの手を振った。

知っている場所を選ぶのは、変化を怖がっているだけかもしれない。知らない場所を選ぶのも、今の自分から逃げたいだけかもしれない。どちらの理由にも、少しずつ臆病さが混じっていた。

担当者が申込書を二枚差し出した。

「決まりましたか」

透子は黄色い札の鍵を掌に置いた。古い金属は、青い鍵よりわずかに重かった。

「こちらにします」

担当者は意外そうにしたが、理由は聞かなかった。

帰り道、透子はパン屋の前で立ち止まった。来月から毎朝この匂いを嗅ぐ。たぶん飽きる日も、うるさいと思う日もある。それでも、知っている町に残ることを停滞とは呼ばないと決めた。

青い部屋の資料には、完成予想図の笑顔の女性が写っていた。黄色い部屋の資料には、階段の寸法とごみ置き場の曜日しかない。透子は二枚を裏返した。広告が約束する人生ではなく、朝に自分が最初に聞きたい音を考えた。無音より、パンを載せる鉄板の響きが浮かんだ。

新しさを選ばなくても、来月の朝は今日と同じではない。透子は、変化の大きさまで他人の目盛りで測るのをやめた。

透子は青い札の鍵を返し、黄色い鍵だけをポケットの底まで押し込んだ。