鐘の鳴らない朝の岩魚
シェラが辺境の谷へ着いた朝、王都の鐘は鳴らなかった。
もちろん、千里離れた鐘楼の音が聞こえるはずはない。それでも十五年間、聖堂の鐘が鳴るたびに起き、祈り、食べ、眠ってきた彼女には、その静けさが落ち着かなかった。
与えられた土地には細い渓流があり、苔むした水車小屋が一軒だけ残っていた。畑を耕す前に、シェラは川岸へ降りた。今日の務めを誰にも決めてもらえないなら、自分で一つ選ぼうと思った。
水車小屋の梁に、短い竹竿が掛かっていた。糸の先には羽根を削った小さな浮き。餌は石の裏にいた虫で足りた。
一投目は枝に絡んだ。二投目は流れに負けた。聖女として祈れば魚を寄せられる。だが、ここで奇跡を使えば、また「聖女の務め」になってしまう。
三投目の前に、シェラは濡れた石へ腰を下ろした。鐘が鳴らないのだから、急ぐ理由もない。雲が谷を渡る影、苔から落ちる雫、流れの中で尾を振る小さな影を、初めて祈りの文句なしに眺めた。
やがてシェラは水面をよく見た。泡が割れずに流れる細い筋へ、浮きをそっと落とす。
羽根が消えた。
慌てて竿を上げると、掌より少し大きな岩魚が、朝日を散らしながら跳ねた。国を救ったときより小さな成果だった。それなのに胸の奥が、ひどく軽くなった。
昼までに石を三つ組み、枝を燃やし、岩魚へ塩をすり込んだ。焼ける音は小さい。けれど皮がぱちりとはぜるたび、自分だけの鐘が鳴るようだった。
鍋では野草のスープが湯気を上げている。シェラが焼きたての身を一口食べたとき、白い鳩が降りてきた。脚には大神官の金筒が結ばれていた。
金筒を見れば、次に何を命じられるか分かる。誰を癒やし、何日眠らず、どの笑顔を作るべきかまで書かれているはずだった。
彼女は筒を外し、煤けた水車小屋の棚へ置いた。代わりに、岩魚の骨を丁寧に外した。今日、自分へ課した務めは、この一匹を残さず食べることだった。
鳩が催促するように首を傾げる。
「朝のお祈りは、もう終わったの」
シェラは二口目を食べた。今度は鐘がなくても、温かいものが温かいうちに食べられた。