階段の上の百円本
砥部川晴音が古本屋「青錆堂」を見つけたのは、昼休みに知らない路地へ入ったときだった。
入口は狭く、奥の木階段を上がると、天井の低い中二階がある。百円文庫の棚と、背の丸い椅子が一脚。店主は「買う前に読んでもいい」と言った。
晴音は週に一度、その椅子へ座るようになった。
仕事場では明るく話すことを求められ、家では同居する姉に今日の出来事を訊かれる。どちらも嫌いではない。ただ、何も説明しない時間が少し欲しかった。
青錆堂では、店主も客も話しかけない。
階下で紙袋が擦れる音と、古い柱が軋む音だけがした。
晴音が選ぶのは、たいてい知らない作家の短編集だった。
一話読み、気に入れば買う。途中で眠くなれば棚へ戻す。百円なので、選択を間違えても大きな損ではない。
ある日、一冊の頁から薄い押し花が落ちた。
色の抜けた菫だった。
晴音は階下へ持っていった。
「忘れ物です」
店主は老眼鏡を上げ、花を眺めた。
「いつの誰のか分からないね」
「捨てますか」
「本へ戻しておけば、次の人がまた拾うでしょう」
晴音は同じ頁へ菫を挟んだ。
その本は買わなかった。
知らない誰かのものを持ち帰るようで、少し気が引けたからだ。
翌週、棚を見ると本はなくなっていた。
残念なような、ほっとしたような気持ちで椅子へ座る。
店主が珍しく、小さな湯呑みを持ってきた。
「茶を多く淹れた」
番茶はぬるく、少し煙の匂いがした。
「菫の本、売れたんですね」
「昨日、学生が買った。花も入ったまま」
「気づいてました?」
「帰り際に、何度も頁を確かめていたよ」
晴音は新しい文庫を開いた。
今度は何も挟まっていない。けれど白い余白へ、前の本を買った学生の指や、菫を挟んだもっと前の誰かの手を想像した。
昼休みが終わる十分前、晴音は百円玉を置いた。
「今日は買います」
「最後まで読んでないでしょう」
「続きがある方が、午後を越えやすいので」
階段を下りると、店の外は強い日差しだった。
鞄の中で文庫本が軽く揺れ、指には番茶の温度が残る。
青錆堂は自宅でも職場でもない。何も尋ねられず、誰かの残した一枚の花だけを、次の人へ渡せる場所だった。