雛壇の三段目
永礼佳澄が実家の雛人形を出すのは、十二年ぶりだった。
父の哲郎から「今年は一人では段が組めない」と電話があり、土曜の朝に帰省した。押入れから出した箱には、防虫剤と古い桐の匂いが染みていた。
「お内裏様は上」
「それくらい分かる」
「去年、左右を逆にしたって言ってたでしょう」
「人形は文句を言わなかった」
父は脚立へ上がり、佳澄は下から赤い布を引っぱった。久しぶりの共同作業は、会話より手の方が先に昔へ戻った。
三段目の五人囃子を並べると、一人だけ笛がなかった。
「なくした?」
「お前が小さい頃、持って遊んだんじゃないか」
「私のせいにしないで」
二人で箱の底や畳の隙間を探したが、見つからない。
父は「今年は手ぶらでいい」と言った。佳澄はなぜか、それが寂しかった。
台所から折り紙を持ってきて、細く巻き、端へ銀色の紙を貼った。
笛らしい形にはならず、少し曲がった棒になった。
「楽器というより、ちくわだな」
「遠くから見れば笛」
「遠くから見る行事だったか」
父が笑い、佳澄もつられた。
飾り終えるころ、昼を過ぎていた。
父は蛤を買ってあり、二人で吸い物を作った。殻が開くまで鍋の前に並んで待つ。
「母さんは、三つ葉を結んでたな」
「結ぶ意味、あったの?」
「見栄えだろう」
「じゃあ、今年はそのまま」
切った三つ葉を無造作に散らすと、青い香りが湯気へ立った。
雛壇の前に低い卓を置き、ちらし寿司を食べた。
窓から入る午後の光が、折り紙の笛だけ妙に白く照らしている。
「来年までに本物を探しておく」
父が言う。
「見つからなくても、また作ればいいよ」
「今度はもう少し笛らしくな」
「父さんが作って」
「それは困る」
佳澄は帰る前、人形の写真を撮った。
完璧に揃った雛壇ではない。三段目に一つ、家にある紙で作ったものが混じっている。
けれどその不揃いな一人が、十二年空いていた時間を埋めるように見えた。
玄関では、蛤の出汁と酢飯の香りがまだ残っていた。
父は「また来年」と言わず、「笛の作り方を調べておく」と言った。
佳澄は靴を履きながら、来年もここへ座る約束が、細い折り紙の筒の中にそっと通った気がした。