雨を切らないで
鷺沢は眠れない夜、知らない人の音声配信を小さく流す。
会話の内容が欲しいわけではない。誰かが息を吸い、言葉を探し、ページをめくる。その間にある生活の音が、部屋の壁を少し遠ざけてくれる。
午前二時十九分。窓の外は雨だった。エアコンは弱い風を送り、枕元の充電器がかすかに熱を持っている。鷺沢が開いた配信では、女性が古い映画の話をしていた。
ところが途中から、配信者の窓にも雨が当たり始めた。
ぱら、ぱら。少し遅れて、ざあ。
「すみません、うるさいですね。窓を閉めます」
女性が立ち上がる気配を見せたとき、コメント欄に一行だけ流れた。
――雨、切らないでください。
別のリスナーだった。丸いアイコンも、短い名前も、鷺沢には覚えのないものだった。
配信者は少し笑い、「じゃあ、このままで」と座り直した。映画の話は続いたが、雨のほうが大きくなった。声が遠のき、雨が近づく。空調の低い音と、配信の向こうの雨と、鷺沢の窓を打つ雨が重なった。
同じ町ではないだろう。降り方も窓の材質も違う。それでも二つの雨はイヤホンの中で混ざり、どちらが自分の部屋の音なのか分からなくなった。
鷺沢は夕方から、友人へ「少し話せる?」と送るか迷っていた。用事はない。用事がないことを説明するのが難しく、下書きだけが残っていた。
配信者はしばらく黙った。コメントを書いた人も、それ以上は何も言わない。画面の人数が五から四になり、また五になった。
やがて女性が「今日はここまで」と言い、雨を残したまま配信を終えた。音が消えると、鷺沢の部屋の雨だけになった。
下書きのメッセージは送らなかった。代わりにスマートフォンを伏せ、イヤホンを外す。窓を打つ音はさっきまでと同じだったが、急いで誰かの声を足さなくてもよい気がした。
配信履歴には、聞き終えた番組の長さだけが残った。コメントを書いた人の名前はもう流れて見えない。鷺沢は探し直さず、覚えている一行だけを雨のそばへ置いた。
雨は切れずに続いていた。鷺沢はその一定でない間隔を聞きながら、ひとり分の布団へ肩まで入った。