雨傘の初対面

穂積廉は、国家気象局の「忘却勤務」に就いていた。毎日、世界各地の気象兵器の起動予測を読む。退庁時には、その日の記憶を削除する。機密を持ち帰らない代わりに、人生も一日ずつ職場へ置いてくる仕事だった。

六月のある夕方、廉は局を出たところで雨に降られた。商店街の傘修理店へ駆け込むと、店主の鳴海郁乃が古い紺色の傘を貸してくれた。

「明日、返しに来ます」

翌日、廉は同じ店へ入り、同じ言葉を言った。

「傘を貸していただけませんか」

郁乃は首をかしげた。廉の手には、昨日の紺色の傘がある。

事情を聞いた郁乃は、それから毎夕、初対面の廉に会うことになった。廉は決まって雨宿りをし、郁乃の淹れる薄い紅茶を褒め、店先の赤い長傘を「夕焼けみたいだ」と言った。郁乃は日々の会話を帳面に記したが、見せなかった。過去を読ませれば、それは彼の記憶ではなく、自分の期待になる気がした。

夏が終わるころ、廉は言った。

「変ですね。あなたとは、初めて会った気がしない」

記憶削除は事実だけを消す。手順や癖、理由の分からない安心までは消しきれないことがあるらしい。廉は毎晩忘れながら、店へ向かう道だけ上手になっていた。

ある日、気象局から赤い警報が出た。翌朝までに都市を離れろ、と廉は郁乃へ告げた。機密を口にした職員は、勤務記憶だけでなく、過去十年を削除される。

「明日、僕はあなたを知らないでしょう」

「今日だって知らなかったじゃない」

郁乃は笑い、紺色の傘の柄に小刀で文字を刻んだ。

――この人を信じてよい。

避難列車の中で施術を受けた廉は、目覚めると十年分若い目で車内を見回した。隣には知らない女性が座り、膝の上には見覚えのない傘があった。

廉は柄の文字を読み、郁乃を見る。

「これは、僕の字ですか」

「ええ。何度も同じことを言う人の字です」

廉はしばらく考え、傘を二人の間に立てかけた。

「では、初めまして」

窓の外では、雨のない土地へ向かう空が晴れ始めていた。郁乃もまた、初対面のように名乗った。