雨地図を救う火棚の部屋

私、フィオラの宿《紙燕亭》には、剣を研ぐ砥石も、傷を塞ぐ聖水もない。その代わり、二階の奥に「火棚の部屋」がある。

最初にそこを求めたのは、地図師のセディンだった。

夕立の夜、彼は濡れ鼠になって飛び込み、外套より先に胸元の筒を抱いた。

「寝床は要らない。これを乾かせる場所だけ貸してくれ」

筒から出てきたのは、新迷宮《逆さ塔》の踏破図だった。三十日かけて測った階段、罠、湧水、退路。その墨が雨を吸い、黒い川になって羊皮紙を流れている。明朝までにギルドへ納められなければ、調査費は没収。偽の地図を持ち帰ったと疑われるという。

「火に近づければ縮む。風を当てれば墨が飛ぶ。もう終わりだ」

私は筒を受け取り、火棚の部屋へ案内した。壁一面の雲母棚は、地下に眠る火蜥蜴の寝息だけを通す。水分には熱く、顔料には冷たい、不器用な棚だ。

「地図を置いて、今夜はここで休んでください」

「眠れると思うか?」

「眠らなくても、棚は働きます」

セディンは椅子に座ったまま地図を睨み続けた。やがて紙の縁から湯気が立ち、流れたはずの墨が細い道へ戻っていく。階段の印が起き上がり、赤い罠印が元の場所で止まった。棚が乾かしているのは紙だけではない。雨に押し流される直前の形を、熱の中から拾っているのだ。紙から立つ匂いも、濡れた獣皮から乾いた羊皮紙のものへ変わった。

セディンは震える指で距離糸を当てた。流れた墨が勝手に美しく直されたのではない。十二歩の廊下は十二歩、崩れた橋の幅は彼が測った六尺のまま。間違いまで含めて、自分の記録だった。

夜半、セディンの顎が胸に落ちた。

朝、完成した地図を透かした彼は、まず出口を確かめ、次に署名を撫でた。

「俺が歩いた道だ。全部ある」

宿代は銀貨三枚。彼は金貨を一枚置き、釣りを受け取らなかった。

「次の調査も雨季だ。奥の部屋を空けておいてくれ」

筒を背にしたセディンが、乾いた靴音で去っていく。私は火棚から最後の湯気を払った。

その直後、階下で紙燕の形をしたドアベルが、軽やかに羽を震わせた。