雨宿りは二度目
「雨が止むまででいいから」
高校二年の六月、小田巻澪は苑田晴臣にそう言って、駅の庇へ呼び止めた。渡したかったのは、好きだと書いた短い手紙だった。けれど最後の行に《返事はいらない》と足してしまい、晴臣は翌月、何も言わないまま父親の転勤で町を出た。
十年後の六月。出張で故郷へ戻った澪は、突然の雨に追われてコインランドリーへ入った。濡れたブラウスを乾燥機へ入れ、貸し出し用のTシャツで待っていると、扉のベルが鳴る。
晴臣だった。
名前を呼ぶまでに数秒かかった。彼も傘を持っておらず、肩から雨を落としている。近況を尋ねれば、仕事、住む街、共通の同級生。話題はいくらでもあるのに、十年前の一通だけが二人の間で濡れずに残っていた。晴臣が洗濯表示を読み間違え、白いシャツを縮ませた話で笑っても、その紙のことだけはどちらも笑い話にできなかった。
乾燥機が回る音の中、晴臣が財布から透明な袋を出した。紙の角が黄ばんだ、あの日の手紙だった。
「まだ持ってるの」
「返事はいらないって書いてあったから、返せなかった」
澪は笑おうとして失敗した。
「普通、そこは言葉どおりに受け取らないでしょ」
「十七歳の俺に、そんな読解力はなかった」
晴臣は手紙を袋へ戻し、スマホを澪の前へ置いた。来週の土曜、澪が暮らす街の美術館。二枚の電子チケットが表示されている。
「今なら、返事をしていい?」
澪は答えず、彼のスマホで一枚を自分のアカウントへ送った。さらに翌月の写真展にも二人分の予定を入れる。晴臣が驚いて顔を上げる。
「一回で返事が終わると思わないで」
乾燥終了の音が鳴った。外を見ると、雨はほとんど上がっている。晴臣が一本だけ買ったビニール傘を開き、澪へ差し出した。
「駅まででいい?」
澪は傘の柄ではなく、晴臣の空いた手を取った。水たまりを越えても離さず、指をつなぐ。
「晴臣。雨が止んでも、このままで」
彼は十年遅れの返事の代わりに、澪の手を握り返した。
雨が止むまででいいから、と始めた雨宿りは、今度は晴れた道の次の約束まで続いていた。