雨音を巻く懐中時計
晴れているのに黄色いレインコートを着た時計職人がいる。
そんな噂を頼りに、皆瀬杏里は高架下の工房を訪ねた。地下鉄の入口で雨音を聞くと、足が動かなくなる。理由を思い出せないまま、三か月も遠回りを続けていた。会社へは毎朝二十分早く出て、友人との約束も雨予報の日は断った。理由のない恐怖を説明するくらいなら、気まぐれな人だと思われる方がましだった。
鳴海朔はフードをかぶったまま、杏里の懐中時計を耳に当てた。祖父の形見で、問題の雨の日から秒針が二秒ずつ遅れる。
「濡れた歯車は急がない」
朔はそう言って、時計を布の上に置いた。
「早く知りたいんです」
「急いで開けると、記憶は錆びます」
無愛想に湯を沸かし、杏里の前へ白湯を置く。コーヒーでも紅茶でもないのが妙に腹立たしく、けれど両手は少し温まった。湯気は、乱れていた呼吸と同じ速さでゆっくり薄くなった。朔は杏里の濡れてもいない鞄の下へタオルを敷く。尋ねても「念のため」としか答えない。
工房の屋根を電車が通るたび、黄色いフードがわずかに揺れた。朔が裏蓋を外すと、雨音が工房いっぱいに広がった。
改札前。濡れた床。スマートフォンに届いた恋人からの別れ。息ができず、しゃがみ込んだ杏里に、黄色い傘を差しかけた見知らぬ女の子。女の子は何も訊かず、電車を三本見送ってくれた。
杏里が忘れていたのは、別れではなかった。助けられたことだった。
「会って、お礼を言いたい」
「顔は戻りません。そこまで記録されていない」
朔は淡々と時計を組み上げ、黄色いレインコートを脱いだ。ハンガーには、色も大きさも違う雨具が何着も掛かっている。
「じゃあ、これは?」
「雨の日に動けない客へ貸すものです」
「今日、晴れていますけど」
「あなたの中では降っていた」
差し出されたレインコートは、杏里には少し大きかった。
工房を出て地下鉄へ向かう。入口で雨音がした気がしたが、今度はポケットの懐中時計が正しい一秒を刻んだ。
「濡れた歯車は急がない」
杏里は借りた袖を握り、一本電車を見送った。逃げたのではない。誰かを待てる速さを、ようやく取り戻したのだ。