雪原に残された選択
ノアが北方公爵家へ来て三日目、評議会の窓は吹雪で白く曇っていた。
南育ちの彼女には、毛皮を重ねても寒い。けれど国境砦の補給会議に「飾りの婚約者」が弱音を吐くわけにはいかなかった。唇の震えを噛み殺し、地図の端を押さえる。
「塩の搬入は東路へ変更します」
発言した途端、老将軍が鼻を鳴らした。
「女人の思いつきで兵を飢えさせる気か」
議長席のゲルド公爵は、老将軍へ氷のような視線を向けた。
「数字を読めぬ者が発言を遮るな。東路なら雪崩の危険が半分になる。彼女の案が正しい」
一言で将軍を黙らせると、ゲルドは議事を続けた。誰にも情けを見せない男だ。昨日も不正を働いた代官を、泣きつかれてなお即日罷免した。
だからノアは、自分の肩に重い外套が掛けられた瞬間、息を止めた。
黒狼の毛皮。公爵が冬の巡察でしか使わないものだった。
「閣下、会議中です」
「知っている」
「私は平気です」
「君は寒いとき、左の親指を隠す」
見れば、握った手の中に左の親指だけが折り込まれていた。幼いころからの癖だ。ノア自身さえ意識していない。
ゲルドは留め金を締めず、外套の端を彼女の手元へ置いた。
「暑ければ外せ。着ろとは命じない」
会議の終盤、王都からの使者が到着した。婚約契約の最終条項には、ノアが春まで砦に滞在し、兵站顧問を務めるとある。
「署名を。王命です」
使者が羽根ペンを差し出す。吹雪の音の中、全員がノアを見た。断れば臆病者。受ければ凍える土地に拘束される。
ゲルドは契約書を手に取り、一読して暖炉へ投げた。
使者が立ち上がる。
「公爵、何を!」
「滞在を望むか、帰郷を望むか、決めるのは本人だ」
「王命に逆らうおつもりですか」
「彼女の意思を確認せず作られた命令ならな」
ゲルドはノアの肩からずれた外套を、触れずに整えるよう視線で示した。
「東路の案は採用する。だが君自身を採用するかどうかは、君が決めろ」
ノアは外套を胸元で合わせた。暖かさより、逃げ道が残されていることに、初めてこの北で息ができた。