雪解けまでの仮夫婦
昭和二十四年の冬、峠道が雪崩で閉ざされ、綾戸庄吉は日奈久澄江の勤める山村診療所へ取り残された。
庄吉は鉄道省の測量技師、澄江は看護婦。
宿舎は一室しか空いておらず、村の古い決まりで、未婚の男女が同じ屋根に住む場合は〈冬越し夫婦〉として帳面へ名を並べることになった。
法的な婚姻ではない。
雪解けの日に自動的に終わる仮の夫婦だった。
最初の一週間、二人は床へ白墨で境界線を引いた。
庄吉の側には測量器具、澄江の側には薬箱。
しかし寒さが深まると、火鉢は一つしかなく、境界線の上へ置かれた。
「石炭、入れすぎです」
「寒いよりいい」
「明日の分がなくなります」
「夫の甲斐性で何とかします」
「仮夫のくせに」
二人は笑った。
庄吉は診療所の壊れた戸を直し、澄江は彼の凍傷を手当てした。
吹雪の夜は、同じ毛布の端を持って眠った。
春になれば終わると知っていたから、誰にも言えない過去や、諦めた夢まで話せた。
庄吉には東京で病床の母が待っている。
澄江は村で唯一、産婆の資格を持つ人間だった。
どちらも雪解け後の暮らしを動かせない。
三月、川の音が戻った。
村長が帳面を持って宿舎へ来た。
「本日をもって、冬越し夫婦は解消です」
庄吉と澄江は一つの欄へ、順に判を押した。
結婚届より簡単で、離縁状より軽い紙だった。
駅までの道で、庄吉が言った。
「本当の夫婦にならないか」
澄江はしばらく雪解け水を見ていた。
「東京へ行けば、私は村の子を置いてきたと思う」
「僕が残れば、母を置いてきたと思う」
「その後悔を、相手への愛で我慢していることにするでしょう」
「そうだな」
二人は、それ以上説得しなかった。
列車が来る。
澄江は弁当を渡し、庄吉は境界線に使った白墨を一本返した。
「何に使うんです」
「次の冬、火鉢の場所を決めるのに」
「一人なら境界はいりません」
「そうでした」
庄吉は笑い、汽車へ乗った。
澄江も笑って見送った。
春の雨が降ると、宿舎の床に残った白墨の線は消えた。
だが火鉢を置いた中央だけ、畳が丸く焼けていた。
仮の夫婦だった証拠は帳面から消されても、二人で寒さを分けたひと冬だけは、どちらの人生にも本物の季節として残った。