電話に出なかった兄

 百済木黎人は、父の葬儀を終えたあと、十九年ぶりに実家の自室を片づけた。

 机の奥から、古いコードレス電話の子機が出てきた。

 電池は切れていたが、同じ箱に充電器と、小さな録音カセットが入っている。父の字で〈消すな〉と書かれていた。

 黎人の妹、澄花は十二歳の夏に失踪した。

 家族の説明では、父と口論して家を飛び出し、そのまま行方が分からなくなった。黎人はその夜、塾の自習室にいたと警察へ話した。

 カセットを再生すると、留守番電話の機械音声が流れた。

『八月十七日、午後八時十四分』

『お兄ちゃん、私。旧診療所の前の電話にいる。お父さんがお母さんを階段から突き落としたの、見ちゃった。お母さん、動かなかった。警察に電話したけど、お父さんの車が来た。迎えに来て。お願い』

 遠くで車のドアが閉まる。

 澄花が息をのみ、通話は切れた。

 黎人は何度も聞いた。

 母はその年の春に病死したことになっている。澄花が消えたあと、父は「妹は母の死を受け入れられず、おかしくなっていた」と説明した。

 カセットの最後に、別の記録が残っていた。

『着信履歴、一件目。午後八時十二分。通話時間、四秒』

『着信履歴、二件目。午後八時十四分。留守番録音』

 二件とも、旧診療所前の公衆電話からだった。

 一件目は誰かが子機で受け、四秒後に切っている。

 黎人は、自室のカーテンを閉めた。

 記憶の中で、十九年前の着信音が鳴る。

 あの夜、彼は塾へ行っていなかった。

 ゲームをしていると電話が鳴り、子機を取った。澄花が「お兄ちゃん」と言った瞬間、廊下に父の足音がした。

 黎人は何も答えず切った。

 二度目は出なかった。

 父は帰宅すると留守番電話を再生し、車の鍵を持って出ていった。翌朝には録音が消され、母の部屋の床が新しく張り替えられていた。

 黎人はカセットを折ろうとした。

 背後で、電池のない子機が鳴った。

 震える手で通話ボタンを押す。

 十九年前の澄花の声がした。

『今度は出てくれたね』

 廊下から、父の足音も聞こえ始めた。