青い猫の社員証
黒瀬円香の社員証には、何もついていなかった。
保険窓口の制服、薄い化粧、黒いパンプス。顧客に安心されることだけを考えれば、好きな色さえ表に出さないほうがいい。
週末の円香は、青い猫の姿でゲームを配信する。配信名は〈蒼猫マル〉。画面の隅で丸い猫が跳ね、円香はパズルを解きながら、失敗した視聴者にも「一手戻れば、まだ間に合うよ」と言う。
その猫の小さなアクリルチャームを、円香は社員証ケースの内側に隠していた。
月曜、窓口で立ち上がった拍子に留め具が外れた。青い猫は床を滑り、来店客の靴の前で止まった。
「あ、それ知ってる」
後ろで待っていた若い男性が声を上げた。
「蒼猫マルの――」
円香の喉が固まる。勤務先を特定されたらどうしよう。休憩室で笑われたら。上司に、窓口担当らしくないと言われたら。
拾い上げたのは、隣の窓口の常盤だった。四十代で、私物は透明の水筒しか持たない人だ。
「娘のです」
常盤は何でもない顔でチャームをポケットへ入れた。
「お客様、番号札をお預かりします」
男性は「あ、そうなんですね」と引き下がった。
閉店後、円香は給湯室で頭を下げた。
「すみません。嘘までついてもらって」
「半分は本当」
常盤はポケットから青い猫を出した。続いて、自分の財布から色違いの白い猫を見せる。
「娘が蒼猫マルさんの視聴者。私は横で見ているだけ。でも、あの人の『一手戻ればいい』は、仕事で失敗した夜によく効く」
円香はチャームを受け取れなかった。手を伸ばせば、自分だと告白することになる。
常盤は急かさず、流し台の縁に置いた。
「誰のものかは聞かない。ただ、好きなものを人質みたいに隠さなくてもいいでしょう」
翌朝、円香は社員証ケースを新しいものに替えた。透明な表側には社名と顔写真。裏側には、青い猫が揺れている。
最初の客を呼ぶ前、常盤の白い猫が隣で小さく鳴った。
円香は二匹を一度だけ触れ合わせ、それから番号を読み上げた。声は、いつもよりよく通った。