青い譜面台
芦原奏のサックスが、最後の音だけ半音低く沈んだ。
「泣いてるみたい」と鳥越夏芽が言う。
「リードが古いだけ」
「そういうことにしとこう」
倉持惟人はピアノの蓋を閉めず、鍵盤の上に両手を浮かせたまま笑った。学生会館地下の練習室には、三人のジャズトリオ〈ブルー・レター〉と、塗装の剥げた青い譜面台が一本。誰が買ったのか、最後まで分からなかった。
解散を決めたのは一週間前だった。けれど決めた瞬間より、今夜のほうがずっと静かだった。
「奏、ウィーンは何年?」
「奨学金が続けば二年。続かなければ半年」
「帰ってきたら、またやる?」
奏はリードを外しながら答えた。
「帰ってきた私は、今の私じゃないよ」
夏芽はコントラバスの弦を緩めた。実家の写真館を継ぐため、来月から朝七時に店を開ける。音楽を辞めるとは言わなかったが、金曜の夜を空けるとも言わなかった。
「惟人は先生だっけ」
「小学校。音楽専科じゃなくて担任」
「ジャズを教えたら?」
「六歳に変拍子を叩き込む嫌な先生になる」
三人は笑った。笑いながら、それぞれの未来が同じ冗談を共有しないことを知っていた。
最後の曲は、譜面のないブルースにした。奏が八小節を吹き、夏芽が応え、惟人が二人の間を埋める。いつもなら競うように長くなるソロが、今日はどれも短かった。次の人へ渡すことだけを考えた演奏だった。
曲が終わると、夏芽が青い譜面台を畳んだ。
「これ、誰が持って帰る?」
「奏じゃないの?」
「私、飛行機の重量制限ある」
「じゃあ夏芽」
「店に置いたら、遺影の横で目立つよ」
惟人が引き取ると言いかけて、やめた。学校に持ち込めば、また三人のものを一人の思い出にしてしまう気がした。
照明を消すと、青い譜面台だけが非常灯を薄く返した。三人は別々のケースを抱えて廊下へ出た。
翌朝、管理人は練習室の中央に残された譜面台を見つけた。開いたままの台には何も載っていなかったが、三人分の指紋だけが、斜めの光に浮かんでいた。