青い鍵と銀の鍵
久世菜摘の鞄には、鍵が二本入っていた。
青い樹脂の札がついた鍵は、今の職場の資料庫。銀色の小さな鍵は、転職先から内定通知と一緒に送られてきた、社員寮の見本室のものだった。遠方から最終面接に来た菜摘へ、人事が「決める前に、一泊して町を見てください」と貸してくれた。
二十九歳、独身、賃貸更新まで二か月。友人なら「動くにはちょうどいい」と言うだろう。母なら「知らない土地で大丈夫」と言うだろう。けれど今日は誰にも電話せず、内定承諾書を一人で読むと決めていた。
寮の部屋は六畳で、窓の外に低い山が見えた。冷蔵庫の音がやけに大きい。知らないスーパーの袋、聞き慣れない路線名、週末に会う人のいない町。新しい生活は、広告の写真よりずっと具体的に寂しかった。
机に二本の鍵を置く。青い鍵の向こうには、やり方を知っている仕事と、名前を呼んでくれる同僚がいる。銀の鍵の向こうには、希望していた編集の仕事と、誰も自分を知らない朝がある。
菜摘は承諾書の「入社意思」の欄にペンを置いたまま、二十分動けなかった。
寂しくないほうを選びたいわけではない。格好いいほうを選びたいわけでもない。ただ、五年後に「本当は行きたかった」と言い続ける自分を、今の自分が養い続けるのは嫌だった。
夕方、菜摘は寮の周囲を歩いた。商店街は早く閉まり、駅前には小さな書店が一軒だけあった。住めそうだとも、住みたいとも、まだ思えない。ただ、知らない土地を『新天地』というきれいな言葉で包まずに見られたことが、わずかな判断材料になった。
書店の店先には、来月の文芸イベントの小さなポスターが貼られていた。ここにも、まだ知らないだけの平日がある。そう思えた。
承諾に丸をつけ、日付を書いた。文字は少し震えた。
翌朝、寮を出るとき、人事宛ての封筒と銀の鍵を同じポケットに入れた。青い鍵は退職日まで使う。引き継ぎも、送別の挨拶も、知らない町で泣く夜も、自分が選んだ続きだった。
菜摘は銀の鍵で一度だけ部屋を施錠し、重くなった鞄を自分の肩に掛けた。