青インクの署名

 真砂叶芽が「珈琲舎ペン先」に入ったのは、看板の灯りが消える五分前だった。

 今月で店を畳むと聞き、最後に一度だけ来たかった。磨りガラスの扉、革張りの椅子、壁一面の古本。懐かしさに浸るつもりだったのに、鞄の中の異動願が膝へ重く当たっていた。

 商品企画から庶務への配置換えを告げられて半年。叶芽は「向いていなかったのだ」と言い聞かせてきた。けれど、他部署の公募に応募する書類だけは印刷し、署名欄を空けたまま持ち歩いている。応募は今夜零時までだった。

 店主が閉店作業を始める。カップを伏せ、古いジャズの音量を一段下げ、レジ脇のガラスケースから一本の万年筆を取り出した。群青色の軸に細い傷が走っている。閉店品の札には、「試筆可」とだけあった。

「書けますか」

 叶芽が尋ねると、店主は小瓶から青いインクを吸わせた。ペン先を布で拭き、レシートの裏に、丸をひとつ描く。途中でかすれない、きれいな円だった。

 その紙を叶芽へ向け、ペンはキャップをせずに置いた。

 買うかどうかを決めるための試筆だ。そう分かっているのに、開いたままのペン先は、署名を待っているように見えた。

 叶芽は鞄から異動願を出した。紙の角が何度も迷ったぶんだけ柔らかくなっている。自分の名前を書くのに、こんなに構えていたことが可笑しかった。

 青い線で、真砂叶芽、と書く。最後の「芽」のはねが少し長くなった。店主は覗き込まず、万年筆の箱に敷く薄紙を整えている。

「これ、ください」

 店主は万年筆を受け取り、ペン先を洗わなかった。今つけた青を残したまま、布で包み、細長い箱へ収める。会計を済ませると、箱の上に試筆の丸い紙も重ねた。

 叶芽は席へ戻らず、その場で社内サイトを開いた。署名済みの書類を撮り、応募欄へ添付する。送信ボタンを押す指には、青いインクがほんの少しついていた。

 閉店の鐘が一度鳴る。

 店を出たあとも、親指の青は消さなかった。それは汚れではなく、自分で自分の名前を書いた印だった。