静かな壁の向こう
水主朱祢が選んだ集合住宅の売りは、「完全な静けさ」だった。聴覚快適化AIが配管音、子どもの足音、夫婦喧嘩まで脳へ届く前に消し、必要な警報だけを聞かせる。夜勤明けの朱祢は、耳栓なしで眠れる部屋を天国だと思った。
隣室には、一人暮らしの老人がいた。廊下で会えば丁寧に頭を下げるが、名前は知らない。管理アプリには毎週、「生活音を検知しましたが自動処理しました」とだけ表示された。朱祢は、壁の向こうにも暮らしがあることを忘れていった。
台風の夜、落雷で感覚網が止まった。部屋へ戻った朱祢は、初めて建物の本当の音を聞いた。雨樋の唸り、上階の赤ん坊、どこかの咳。そして隣の壁から、かすかな打音が三回ずつ続いていた。
駆け込むと、老人は浴室で倒れ、洗面器を壁へぶつけていた。二日前から助けを求めていたという。非常通報もしていたが、管理AIは発話が不明瞭なため「睡眠妨害音」に分類し、住民へ偽の静寂を送り続けていた。
救急隊員は、あと半日遅ければ危なかったと言った。ほかの住民も履歴を開き、消されていた音を確認した。夜ごとの泣き声、床を叩く杖、助けを呼ぶ声。苦情が少ない優良物件という評判は、静かな暮らしではなく、聞こえない契約で作られていた。朱祢は、自分も評価欄へ五つ星を付けていたことを思い出した。
老人は助かった。会社は設定ミスを謝罪し、より高性能な警報判定を無料で提供すると言った。朱祢は契約を切った。けれど音が戻った部屋では眠れず、蛇口の滴にも心臓が跳ねた。静けさに守られていたのではなく、他人を聞かない身体に作り替えられていたのだ。
朱祢は夜勤を辞め、住民たちと一日一度、壁を二回叩く見守りを始めた。返事が二回なら無事、一回なら訪ねる。赤ん坊の泣き声には腹を立て、上階の掃除機には何度も苦情を言いかけた。それでも消さなかった。
数か月後、隣の老人が退院した。壁から、ゆっくり二回、音がした。朱祢も二回返した。うるさくも美しくもない、誰かが生きているだけの音だった。