非常階段の三段目

非常階段の三段目だけ、踏むと低い音がした。

部活を辞めたい、と彼女が言ったのは、その音を二度鳴らしたあとだった。

放課後、吹奏楽部の音が窓の向こうで重なっていた。金管の高い音が風にちぎれ、非常階段まで届く。彼女は手すりに背中を預け、膝の上で指を組んでいた。右手の親指だけ、何度も左手の爪をなぞっていた。

「向いてないのかも」

僕は隣に座り、三段目をかかとで鳴らした。

「向いてるって、誰が決めるんだろうな」

「向いてない人は、だいたい自分で分かるよ」

彼女はトランペットのケースを抱えていた。角が擦れて白くなっている。中学から毎日持ち歩いた跡だ。

来月のコンクールで、彼女は補欠になった。後輩がソロを吹く。顧問は「実力順だ」と言った。それが正しいからこそ、誰にも怒れないのだという。

「悔しいって言えばいいのに」

「言ったら格好悪い」

「ここ、立入禁止だから、格好悪くても見つからない」

彼女は少し笑った。笑った拍子に、目の端から一滴だけ落ちた。雨ではなかった。空は薄い青で、校舎の影だけが長かった。

僕は相談に答えるのが苦手だ。辞めるなとも、辞めていいとも言えなかった。代わりに、ポケットから昼休みに買ったラムネを二粒出した。

「これ、コンクールの日まで持つと思う?」

「持つわけないでしょ」

「じゃあ今日食べるしかないな」

彼女は一粒受け取り、舌の上に置いた。しばらく二人で黙っていた。遠くで、例の後輩がソロの部分を吹き始めた。音はきれいだった。彼女は目を閉じて聴き、最後まで終わると小さく息を吐いた。

「上手いなあ」

その声は、負けを認めた声ではなかった。好きな音を好きだと言う声だった。

彼女は立ち上がり、ケースの留め金を外した。

「一回だけ吹いてから戻る」

「見つかるぞ」

「ここ、立入禁止なんでしょ」

非常階段に、短い音階が昇っていった。最初の音は震えた。二度目はまっすぐだった。

僕は三段目を鳴らして拍子を取った。

次の日、彼女は退部届を破った。コンクールには出られなかったけれど、客席で誰より大きく拍手をした。

非常階段の三段目は、その後も低い音を出した。僕らには、それが始まりの合図に聞こえた。