靴箱に残った一センチ

槙野灯里は、退職する後輩へのカードを前に、三度目の「全部ごめん」を消した。机の引き出しから修正テープを探すと、白い封筒が落ちた。角が擦れ、裏に「夕映」とだけ書かれている。

卒業式の朝、その封筒は灯里の靴箱に入っていた。

夕映とは、文化祭のあとから口をきいていなかった。灯里が失敗した動画を、夕映が別のクラスの子と見て笑っていたからだ。事情を聞く前に連絡先を消し、席が近くても視線を合わせなかった。卒業すれば、このまま他人になれると思っていた。

封筒の中の便箋には、一行しかなかった。

《あの日、笑ったことを謝ります》

言い訳も、「そんなつもりじゃなかった」も、思い出の羅列もなかった。全部ではなく、灯里が傷ついた一か所だけに、夕映は指を置いていた。

昇降口には卒業生があふれ、ローファーの踵が床を鳴らしていた。夕映は一番端の靴箱の前で、上履きを袋へ押し込めずにいた。灯里が近づくと、顔を上げたが、何も言わなかった。

許すと言うには、まだ胸が硬かった。もう遅いと言えば、その言葉だけが二人の三年間になりそうだった。

灯里は自分の靴箱からローファーを取り出した。空になった棚へ、夕映の上履き袋が入るだけの隙間を作る。ほんの一センチ、横へずらした。

夕映はそれを見て、袋を隣に置いた。上履き袋の紐が棚から少し垂れ、灯里はそれを中へ押し込んだ。夕映は「ありがとう」と言わなかった。灯里も「許した」とは言わなかった。

二人で校門を出たわけではない。写真も撮らなかった。駅へ向かう道では、夕映が十歩ほど後ろを歩き、分かれ道で別の方角へ曲がった。けれど靴箱の扉を閉めるとき、灯里の指と夕映の指が同じ金属に触れた。どちらも先に引っ込めなかった。

その後、二人は年賀状を二度やり取りし、それきりになった。仲直りできなかったから失敗だったとは、灯里は思わない。あの一センチは、関係を元へ戻すためではなく、相手の言葉を置く場所を作っただけだった。

現在の机で、灯里は新しいカードを取り出した。

《会議であなたの提案を、自分の案のように言いました。ごめんなさい》

その下に、引き留める言葉は書かなかった。空いた一センチを相手が使うかどうかは、相手が決めることだ。

灯里はカードを封筒に入れ、自分の名前を、言い訳のない字で書いた。