靴箱七段目の返事
母校の校舎が取り壊されると聞き、牧名は最後の公開日に足を運んだ。
昇降口には、卒業生が持ち帰ってよい備品が並んでいた。錆びた傘立て、欠けた黒板消し、番号札の外れた靴箱。七段目の奥に指を入れると、木のささくれが爪に触れた。
そこは、高校一年の牧名が交換日記を隠した場所だった。
相手の名前は知らなかった。
人前で声が詰まる牧名は、授業中に当てられるたび笑われた。ある雨の日、七段目に忘れた上履きを取りに戻ると、青いノートが入っていた。
〈今日、返事をしなかったのは、答えが分からなかったから?〉
誰かのいたずらだと思いながら、牧名は書いた。
〈分かっていた。でも、声が出なかった〉
翌朝、返事があった。
〈声が出ない日も、答えはなくならないよ〉
それから二人は、顔を合わせないまま日記を回した。相手は廊下の音、購買のパン、嫌いな体育のことを書いた。牧名は、言葉が喉で固まる怖さを初めて誰かに渡した。
卒業式の前日、牧名は書いた。
〈名前を呼ばれても、返事ができないかもしれない〉
返ってきた頁には、短くこうあった。
〈そのときは、右足で床を二回鳴らして。聞いているから〉
式当日、担任が「吉野牧名」と読んだ。
喉はやはり閉じた。牧名は右足の踵を、二度、体育館の床に落とした。
前から三列目で、同じ音が二度返った。
振り向くと、いつも大声で笑っていた灯子が、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
それが二人の最初で最後の答え合わせだった。
卒業後、灯子とは別の土地へ進み、連絡はいつしか途切れた。けれど牧名は言語聴覚士になった。診察室で言葉を待つ仕事を選んだのは、あの靴箱の青いノートがあったからだ。
「これ、持って帰りますか」
案内役の先生が、外れかけた〈七〉の札を差し出した。
牧名は受け取り、掌で木の粉を払った。
明日は、新しい職場で初めての挨拶をする。上手に話せる保証はない。
それでも大丈夫だ。
昇降口を出る前に、牧名は右足を二度鳴らした。
誰もいない校舎の奥から、二度、やわらかな反響が返ってきた。