順位のない散歩
真帆のランニングアプリには、同じ会社の七人で作った順位表があった。
月曜日から金曜日まで、昼休みに誰かが「今週も一位」とスクリーンショットを上げる。真帆は走ることが好きだったはずなのに、いつからか景色より数字を見るようになった。信号で止まると平均速度が落ちるから、赤になる前に渡った。足首が痛む日は、歩いた区間だけ記録から削除した。
土曜の朝、雨上がりの道でアプリを起動すると、同僚の歩数がすでに一万を超えていた。真帆は寝起きの体を急かすように走り出した。二つ目の角で足首が鈍く鳴り、白いガードレールにつかまる。
向かいのパン屋から、焼きたての匂いが流れてきた。店先には「栗あんぱん、本日から」と手書きの札が出ている。立ち止まれば順位が下がる。そう考えた直後、自分が誰に追われているのか分からなくなった。
ベンチに腰掛けると、呼吸は乱れているのに、雨粒を載せた植え込みだけが妙に鮮明に見えた。順位表を始める前は、こういう朝にわざと水たまりを踏んでいた。今は靴が濡れる時間さえ無駄に思い、最短距離ばかり選んでいた。足首をさすりながら、真帆は走った距離より、見なくなったものの多さを考えた。
真帆はアプリの停止ボタンを押した。走行時間は六分十二秒。保存画面に「記録を破棄しますか」と出る。
いつもなら、短すぎる記録を恥ずかしく思い、家まで無理に走った。けれど今日は「破棄」を選んだ。運動した六分まで消えるようで少し惜しかったが、順位表に載らない朝があってもいい気がした。
パン屋で栗あんぱんを一つ買い、紙袋を抱えて歩く。時計は見なかった。濡れた並木の下で、靴底が水を踏む音が左右交互に鳴った。
途中で同僚のメッセージが来た。
〈今日は走らないの?〉
真帆は返信欄を開き、「散歩中」とだけ打った。言い訳も、足首の説明も、昨日までの距離も足さなかった。送信してから、次の角を一番遠い方へ曲がった。栗あんぱんはまだ温かく、順位のない歩幅に合わせて袋の中で静かに揺れた。