額縁の雨宿り
喫茶店の奥には、赤い傘を差した女の絵が掛かっていた。
先代の店主が蚤の市で買ったもので、客は皆、女の横顔を「待ち人が来ない顔」だと言った。
現店主はその解釈が嫌いだった。
待つことを不幸と決めつけるのは、待たせる側の都合に思えたからだ。
梅雨の夕方、常連の男が店へ駆け込んだ。
濡れた封筒を胸へ抱え、いつもの席ではなく、絵の真下へ立った。
すると絵の女が、赤い傘を少し持ち上げた。
「入る?」
男は天井を見上げた。
店主も、コーヒーをこぼしかけた。
絵の中の女は、誰かが傘の下へ立ったときだけ話した。
「誰を待ってるの」
男が小声で尋ねた。
「待ってない。雨がきれいだから立ってるの」
「でも、寂しそうだ」
「あなたの方が寂しそう」
男は封筒を握り直した。
中身は退職届だった。
会社を辞め、故郷へ戻るつもりだという。
店主には何も言わず、この町から消えるつもりだった。
「言えば引き止められると思った?」
絵の女が聞いた。
男は店主を見ない。
「引き止められなかったら、もっと困る」
店主は腹が立った。
毎週同じ席で、同じ苦いコーヒーを飲み、店の棚を直し、雨の日には入口の水を拭いてきた人が、別れの言葉さえこちらへ任せようとしている。
「帰るのは勝手です」
店主は言った。
「でも、黙って消えるのはなしです」
男はようやく顔を上げた。
「引き止める?」
「月に一度、豆を送ります」
「それだけ?」
「十分でしょう。こちらは商売ですから」
絵の女が笑った。
「その傘、小さいね」
男が言う。
「二人なら濡れる」
「少し濡れた方が、帰ったあと温かいよ」
雨が弱まり、男が額縁の下から離れると、女は元の横顔へ戻った。
一か月後、男は本当に故郷へ帰った。
店主は毎月、苦い豆と短い手紙を送った。
返事には海の写真や、実家の屋根を直した話が書かれていた。
三年後、男が店へ戻ってきた。
入口で傘を閉じ、絵の真下へ二人で立った。
女は傘を上げたが、何も言わなかった。
「話さないね」
男が言うと、店主は肩をすくめた。
「待ち人が来たからでしょう」
絵の女は、今度こそはっきり笑った。